「中国版ウーバー」として知られる配車アプリの滴滴出行(DiDi)が米国で巨額の新規株式公開(IPO)を行った数日後、「個人情報の収集ならびに使用の過程で重大な規定違反があった」として、中国当局によるサイバー・セキュリティー審査によってアプリの新規ダウンロードなどを禁止された。
今回の事件は、中国当局によるテック企業への監視強化、米中貿易戦争の情報セキュリティーやNYにおける株式公開取引への波及など、様々な問題を提起している。
DiDiは6月30日、NY市場で44億ドルのIPOを行った。中国企業としては2014年のアリババ以来の大型IPOとなった。しかし、同社の株価は、ダウンロード禁止が実施された7月2日に-5%、独立記念日明けの5日に-25%も下落した。
その後はほぼ横ばい圏内で、12ドル前後で推移している。筆頭株主はソフトバンク・ビジョン・ファンドで約1兆円を出資してきた。
今年は中国企業のIPO調達額は前年の4倍強にあたるブームとなった。ちなみに2021年上期に新規株式を調達した中国企業は34社、調達額は124億ドルであった。
前年同期は18社、調達額は28億ドルに過ぎない。21年上期における中国企業のIPO急増によってゴールドマンサックスやモルガンスタンレーなどの幹事会社が得た手数料は4.6億ドルに達する。
しかし、7月2日、中国のサイバースペース当局(CAC、Cyberspace Administration of China)は、DiDiにサイバー・セキュリティーの審査に入ることを発表した。審査期間中、DiDiはアプリの新規ダウンロードならびにアプリストアへのアプリ登録を禁止されることとなった。
CACでは「国家のデータに関する保安リスクが脅かされることを防ぐことにより、国家の安全を維持するとともに公共の利益を擁護する」との声明を出した。
サイバー・セキュリティー審査の正当性を強調するとともに、DiDiへの審査開始については「DiDiは個人情報を収集、使用するにあたって重大な規則違反があった」とその理由を説明している。
DiDi以外にもCACの審査声明を受けたテック企業が二社あった。いずれも6月中にNY市場でIPOを行っている。トラック配車アプリの満幇集団(フルトラックアライアンス)、人材派遣のBOSSである。両者とも株価は売り出し価格を下回っている。
今年IPOを実施した中国企業の株価は、7月5日時点で2/3の企業がIPOの際の売り出し価格を下回る事態となっている。中国の規制当局からの逆風が強まっていることが響いているのは言うまでもない。
問題は広範囲に亘っていることが次第に分かってきた。中国政府は海外上場企業に対する監視を強める、とくに国境を越えてセンシティブな情報を移動させるような企業には今後、厳しく当たることが鮮明となった。
また中国政府が、中国のテック企業が上海や香港でなく、米国でIPOを行ったこと自体を快く思っていない。CACが米国上場を実施予定の中国企業に対するデータセキュリティー審査期間(通常60日)を引き延ばしている事例が増えている。
米国政府・議会による中国企業への監視強化の動きも中国政府による中国企業の米国上場を抑制しようとの動きにつながっていよう。
米国議会では全会一致で、20年12月に中国企業に対して3年以内に企業情報の公開を求め、もし従わない場合には上場廃止を迫る法案(外国企業説明責任法)を通過させた。大統領署名によって発効している。
一方で中国はデータセキュリティー法を21年6月に通過させて9月に発効させる予定である。これによって、中国企業は、中国本土に保管しているデータを海外の司法当局等に供給するような場合には政府の承認を必要とすることになった。
このような米中当局双方による規制強化の動きを尻目に、中国のテック企業は規制強化の前に大挙してNY市場でのIPOに向かった。また米国投資家も高成長を続ける中国企業への株式取得に積極的であった。
しかし、この流れは不確かになってきた。まず、上記のように中国が海外に上場している中国企業の潜在的なデータの安全性に関して新たなサイバー・セキュリティー法を使って精査し始めるようになった。
これに対して中国企業サイドはまだ全く対応しきれていない。さらに中国政府から見れば、米国が上場企業の監査権限を強化することは重要データの漏洩につながると警戒しているようだ。国家安全保障上もデータの米国への流出を防ぐ狙いであることは明らかである。
NY市場関係者の間では、DiDiに対する今回の措置は、当局指示を無視した懲罰ではないか、との見方もある。
厳しいサイバー・セキュリティー審査を突如宣告したのは、ビッグテックが中国にとどまらず、海外に行ってしまうこを当局が牽制したというわけだ。実際、真偽のほどは定かでないが、DiDiは中国当局と香港で上場する相談をしているとの憶測もある。
対中感情が悪化している米国で唯一、中国に対して好意的であったのがウォールストリートの金融機関であった。中国の投信ビジネスへの進出などの資産運用やIPOなどを手掛けて高収益をあげている金の卵である中国だからだ。
ウォール街の金融機関が分厚い利鞘を稼げるIPOビジネスからこの程度のことで手を引くとも思えない一方で、NY市場での中国企業(とくに膨大なデータを擁するテック企業)が今後NY市場でIPOを手控えざるを得ないことは手痛いビジネスチャンス喪失のように思える。
中国企業にとってはDiDi事件の教訓は自明である。アリババのジャック・マーが一時、拘束されて、その後それまでの自由な活動を厳しく制限されたのと同じで共産党の命令には逆らえない、ということだ。
習近平体制が国家安全法を根拠に国家安全を守っていく、という指針を示している以上、サイバー・セキュリティー、海外進出に伴う情報公開などに厳しく対応していくという共産党の指示に従わざるを得ないということである。