最近は人的資本経営を巡る議論が盛んである。その背景には二つの大きなテーマがある。ひとつは企業価値の向上であり、もうひとつは日本経済の成長である。同じことに聞こえるかもしれないが必ずしもそうではない。順番に見ていこう。
経済産業省によれば、人的資本経営とは、「人材を『資本』として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方」だとされる。
とくに近年は、デジタルやグリーンなどを中心に産業構造の大きな変化が予想される一方、働き手も生き方やキャリア観が多様化している。現存する人的資源が、将来にわたる企業の経営戦略に適合する保証はない。あるいは、今は適合していてもすぐに適合しなくなる可能性がある。
そのギャップを把握し、先々の事業展開を見据えて人材ポートフォリオを構築していくこと、すなわち経営戦略と人材戦略の整合性を高めることが、人的資本経営の根幹である。
事業の発展に必要な人材を育てることは、企業経営にとって昔から当たり前のことであった。それをことさら「人的資本経営」と呼ぶようになったのは、前述した産業構造の変化などにより、近年はその難しさが増しているとの認識によるものと考えられる。先進国における価値創造の基盤が、有形資産から無形資産に移りつつあるという認識もある。
さらに、ESG(環境・社会・企業統治)投資が重視されるようになったことの影響もある。ESGにおいて人的投資は「S」に当たる。その「S」の要素が持続的な企業価値の向上に不可欠であるとの認識が広がり、投資家と企業との対話において重視される方向にある。
「人的資本」は重要な非財務情報になりつつある。米国証券取引委員会(SEC)は2020年、人的資本の情報開示を義務付けた。日本でも2021年、東証のコーポレートガバナンス・コード改訂において、同様の情報開示強化が盛り込まれた。
さて、このような人的資本経営を巡る資本市場や企業の意識変化は、日本経済の成長率強化につながるであろうか。日本経済にとっておそらくマイナスではないだろう。
しかし、「賃金の持続的な上昇→個人消費の拡大→国内市場への企業投資の拡大→潜在成長率の上昇」という連鎖が、期待通りに起きるかどうかは何とも言えない。
その理由の第一は、人的資本経営の目的が「企業価値の最大化」にある点である。企業価値の最大化とは株主リターンの最大化である。
「人件費はコストではなく投資だ」と言えば、従業員の報酬引き上げに力点があるかの印象を与えるが、むしろ「投資」であるからこそ株主リターンへの貢献が説明できなければならない。
企業価値の向上に貢献すると見込まれた人たちには「投資」がなされるだろうが、貢献が小さいと評価された人たちへの「投資」はかえって絞られるかもしれない。賃金が全体として上がる保証はなく、賃金の格差が開くだけに終わるリスクがある。
第二に、そもそも企業価値の最大化とGDPの最大化は同じではない。とりわけ「人的資本経営」は、主としてグローバルに展開する上場企業を念頭に置いた考え方である。
日本企業の株を持つ投資家にとっては、その企業が稼ぐことが重要なのであって、世界中のどこで稼ぐかは二の次である。株主の力で変わりうるのは、あくまでその企業の価値であり、日本のGDPではない。
第三に、経済全体の成長のためには、転職により賃金が上昇するメカニズムも重要である。この点を巡る日本の現状は厳しい。経済産業省の「未来人材ビジョン」(2022年5月)に掲載されている資料によれば、転職した人のうち賃金が上がる人の割合は、ドイツでは60%、米国では55%、英国では51%だが、日本ではわずか23%である。
これは日本では、中高年でやむをえず転職するケースが多く、その場合、それまでのスキルが評価されずに賃金が下がるケースが多いためと考えられる。転職で賃金が上昇するためには、転職先で評価されるスキルを身につけていることが必要である。
この点、政府の「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」においても、「スキルアップを通じた労働市場の円滑化」が重要だとされている。
ただし、元の企業にはそのスキルアップを支援するインセンティブはない。自己責任にも限界がある。これは人的資本経営という考え方だけでは改善しにくい問題であり、企業ではなく政府による学び直し支援やセーフティネットの強化が重要になる。
第四に、雇用の7割は中小企業によって創出されている。そこで働く人々の賃金が継続的に上昇する環境が作れない限り、日本全体としての賃金上昇や経済成長は限られる。
主に大企業を念頭においた人的資本経営だけで、日本全体を拡大均衡に向かわせることは、そう簡単ではないだろう。
このように、人的資本経営のムーブメント自体は望ましいものであるが、根本において株主目線の仕掛けでは、賃金の上昇を伴う国内経済の好循環は実現できない可能性が高い。
市場メカニズムで足らざる部分を政策でどう大胆に変えていくか。「新しい資本主義」が問われるのはそこである。
「人への投資」で経済は成長するか |
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【門間前日銀理事の経済診断】格差拡大だけに終わるかも、「新しい資本主義」が問われる
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門間 一夫( みずほリサーチ&テクノロジーズ エグゼクティブエコノミスト)
1957年生。1981年東大経卒、日銀入行。調査統計局経済調査課長、調査統計局長、企画局長を経て、2012年から理事。2016年6月からみずほ総合研究所(現みずほリサーチ&テクノロジーズ)エグゼクティブ・エコノミスト。著書に『日本経済の見えない真実』(日経BP社)
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