ゴジラの逆襲ならぬ「日本生命の逆襲」が金融界で話題だ。
「ゴジラとは古い、書き手の年齢が知れてしまうよ」と嘲笑されかねないが、かつて日本生命はゴジラのように巨大で向かうところ敵なしの保険業界の“ガリバー”として君臨してきた。その日本生命が15年3月期決算で、初めて保険料収入で第一生命に抜かれる見通しとなった。
総資産や保有契約高などのストックの指標や本業での収益力を示す基礎利益では、依然として日本生命はトップに立っているものの、一般企業でいう年間の売上高で第一生命に抜かれることはガリバー日本生命の危機感に火を付けた。
日本生命が15年3月期決算で個人契約者の配当を7年ぶりに増やすとぶち上げたのは逆襲の狼煙に他ならない。増配総額は30億円で、個人契約者の半数にあたる720万件が対象になる。今年度の基礎利益は7年ぶりに6000億円台に回復する見通しで、増配で日本生命は業界トップの座を明け渡さないと宣言しているようなものだ。
さらに、4月からスタートする新中期経営計画(3年間)では、成長が期待される環境関連の事業や新興国のインフラ事業などに、最大1兆円の巨資を投融資に振り向けるという。筒井義信社長は新年の挨拶で「グループ全体の収益拡大に向け、海外の保険事業に積極的に取り組む」と社員に語りかけた。
ライバルの第一生命が米中堅プロテクティブ生命を買収するなど海外M&Aに積極的に乗り出していることを意識した宣戦布告と言っていい。従来、マイナー出資にとどまっていた海外の買収案件をマジョリティー出資に引き上げていくことも視野に入る。
ひるがえって、日本生命がここまで追い込まれたそもそもの主因は、保険の銀行窓口販売で出遅れたことにある。それとは対照的に銀行窓販に積極的に参入したのが第一生命だった。
「どこの系列にも属さない独立色の強い日本生命は、銀行窓販でもいずれの銀行とも等距離外交で、銀行が保険の窓口販売に乗り出すこと自体をライバル視していたほどだった」(メガバンク幹部)という。だが、保険の窓販は日本生命の予想を超えて伸びていく。結局、この出遅れが今回の保険料収入の逆転へと繋がっていった。
そもそも日本生命が銀行と距離を置くことになった原点はどこにあるのか。そのルーツは、1998年の金融危機にまで遡る。この年の10月に日本長期信用銀行が、12月に日本債券信用銀行が相次いで国有化された。日本発の金融恐慌が現実味を帯びた危機的な状況であった。
この危機を脱するため日本債券信用銀行は97年4月に総額3000億円の増資に打って出る。だが、破綻しかねない銀行に出資する企業は皆無であった。そこで当時の大蔵省銀行局幹部は主要金融機関に対し出資の根回しに動いた。俗に言われる「奉加帳問題」である。
大蔵省が事実上の保証人となって奉加帳のように各金融機関に出資額を割り振ったためだ。結果、日銀の800億円、銀行、生保など民間金融機関34社が計2100億円を拠出した。その中には当然、トップ生保の日本生命も入っていた。
しかし、日本債券信用銀行は、大蔵省幹部の尽力もむなしく破綻し、出資金は紙屑と化した。激怒した当時の社長、宇野氏は「今後、いっさい銀行には出資しない」と語気荒く語ったと言われる。銀行との縁切りを示唆したようなものだった。
この歴史の綾が、日本生命をその後の“守りの経営”に導いたとするのは言いすぎであろうか。あれから17年、日本生命は、公的資金の完済を目指すりそなホールディングスに数百億円を出資することを決めた。国が保有するりそな株を間接的に引き受けるようなスキームである。狙いは、りそなが持つ広範なネットワークを介した保険窓販の拡大にある。
過去の轍から決別した日本生命は、りそなのみならず他の銀行とも急速に距離を縮めていくことになろう。それを主導するのは、宇野元社長の愛弟子といわれる筒井社長である。銀行離れを主導した人の遺伝子をもっとも引き継ぐ人が、表面的には逆の戦略をとる。危機意識をばねにした「日本生命の逆襲」が始まろうとしている。
日本生命の凋落と逆襲 その原点とは |
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17年前の「奉加帳問題」で離れた銀行との距離を縮小するべく舵をきった 森岡英樹
公開日:
(ビジネス)
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森岡 英樹(経済ジャーナリスト)
1957年生まれ、 早稲田大学卒業後、 経済記者となる。
1997年米国 コンサルタント会社「グリニッチ・ アソシエイト」のシニア・リサーチ ・アソシエイト。並びに「パラゲイト ・コンサルタンツ」シニア・アドバイザーを兼任。2004年 4月 ジャーナリストとして独立。一方で、「財団法人 埼玉県芸術 文化振興財団」(埼玉県100%出資)の常務理事として財団改革に取り組み、新芸術監督として蜷川幸雄氏を招聘した。 |
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