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スカイマーク前社長の軌跡

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90億円近い私財をスカイマークに投じた起業家。その度胸はこの国に貴重だった 神鳥 巽

公開日: 2015/01/30 (ビジネス)

西久保慎一スカイマーク前社長=Reuters 西久保慎一スカイマーク前社長=Reuters

神鳥 巽 (経済ジャーナリスト)

 スカイマークが遂に倒産した。朝令暮改の運航計画、退職したパイロットに訓練費の返還請求訴訟、そしてミニスカートのキャビンアテンダント。挙げ句の果てには、欧州のエアバス社の新鋭大型機A380を6機購入するという無謀な巨額投資がたたって経営破綻した。すべては、風雲児と評されたこともあるスカイマークの西久保慎一前社長の強烈な個性に起因する。彼を叩くのはたやすい。だが、あのリスクに挑むことを惜しまない姿勢は、「起業家精神」不在の日本の経済界には学ぶべき点があろう。
 よく知られるように、スカイマークの創業者はエイチ・アイ・エスの澤田秀雄である。格安航空券販売で成功した澤田が、夢見ていたのは米サウスウエスト航空のビジネスモデルだった。ちょうど1995年ごろ、旧運輸省航空局は欧米諸国の成功例を目の当たりにして、運賃規制を緩めるとともに航空業界に新規参入をもくろむ自由化を策する。そこで手を挙げたのが澤田だった。だが航空局の航空事業課や総務課はつれない。このときのことを回顧して澤田はこう語ったことがある。
 「当時航空局はブランド力のある一流企業が参入してくれると見込んでいたようですが、安全面や労務面の規制が非常に厳しく、どこも二の足を踏んでいた。そこに手を挙げたのが僕だったんですが、航空局の官僚からしてみると“招かざる客”だったようで、胡散臭がられましたよ
 事実、航空局の現場の課長や補佐クラスは極めて厳しい姿勢を示していた。そこに思わぬ応援団として登場したのが、航空局長の黒野匡彦(後に事務次官)。澤田は「本当に黒野さんには応援していただいた。黒野さんのおかげで参入できた」と振り返る。ここで留意してほしいのはスカイマーク誕生の産婆役を果たしたのは、旧運輸省航空局の高級官僚だったことである。自分たちの政策実現に使ったのだ。
 ところが、参入したものの経営はすぐにピンチに陥る。東京-福岡間を破格の半額料金などに設定したが、すぐに日本航空(JAL)や全日本空輸(ANA)がスカイマークの便とほぼ同時間帯の便を同じ半額料金に値下げしてくる。開業当初は80%近かった稼働率は30%台に低迷。そして赤字へ。
 このままでは経営がもたないと思案しているときに、澤田が引き込んだ男が西久保慎一だった。澤田は、航空ベンチャーの後事を託すには、①ベンチャー企業の経営能力がある、②資金が潤沢にある、③航空行政と渡り合うだけの相当の「あく」の強さがある――の3点が必要と考え、そのおめがねにかなったのが西久保だったのだ。
 すでにスカイマークに対して資金を融資してくれる銀行はない。潤沢な資金を持つ個人というと、創業した企業を上場させて創業者利得が転がり込んだ起業家しかいない、という判断だろう。西久保は自身の営むインターネットプロバイダー「ゼロ」を、1997年、店頭市場の審査規制を緩和した特則市場で株式公開、さらにITバブルのピーク時にナスダック・ジャパンに鞍替え上場し、90億円余りのキャピタルゲイン(売買差益)を得た。納税後の個人資産は70億円強を上回っていた。
 こうして西久保は引き入れられ、3回の増資引き受けの形で70億円強をスカイマークに拠出した。手元に残ったのは3億円。「これだけあれば女房とせがれの家族3人には十分。もとより分不相応なお金だったんですよ」と西久保。さらにキャッシュリッチだったゼロは、本業のプロバイダー事業をGMOインターネットに売却した後、潤沢な資産とともにスカイマークに吸収された。西久保は得たカネも育てた会社もスカイマーク再建に提供したのだ。これだけの「太っ腹」な経営者はなかなかいない。
 実はこのとき、澤田と西久保をつないだのは、ライブドアにいてエイチ・アイ・エスグループに転じて間もない野口英昭(後にエイチ・エス証券副社長)だった。ライブドア事件の渦中、沖縄で謎の死を遂げた男である。
 澤田は野口のことは「あの事件があって……」とあまり語りたがらないが、西久保はかつて周囲にこう語ったことがある。「当時、野口君はエイチ・アイ・エスグループ全体のM&Aの責任者で、いくつものM&A案件を抱えていた。その一つがこれ。彼から声をかけてきたんだ」。おそらく澤田は、押し付け先を探すことを野口に命じていたのだろう。
 いざ、西久保が乗り込んでみるとスカイマークの経営はめちゃくちゃだった。就業規則はない。賃金規定はない。なんで売りに出ていたのかよくわかった。「澤田さんは突破力はある。航空会社を作るなんてことは澤田さんでないとできない」と評価する西久保だが、西久保は澤田の息のかかった人を遠ざけるなど澤田色の払拭につとめ、次第に2人の間に隙間風が吹く。「あくが強い人をと思って選んだのですが、よくも悪くも西久保さんは独裁オーナー」と、澤田も自分を棚に上げて西久保を評する。 
 西久保はスカイマーク買収後、週末は訓練飛行場に通い、4年かけて双発のプロペラ機「パイパー」の運転免許を取得。パイロット出身の植木義晴(片岡千恵蔵の息子)がJALの社長に就くまでは、国内では初めてで唯一の、パイロット免許のある航空会社社長だった。なぜ免許をとったのかといえば、「自分で操縦しないとわからない。国内のほとんどの空港に自分で操縦していきましたが、そうするとどういう客が乗るのか、どういうアプローチがいいのか、頭に入る」と語っていた。神戸の格納庫に預け、月に数回飛んでいた。
 西久保の頭の中にあったのはヴァージングループを創業したリチャード・ブランソン。ブランソンは西久保の、いわばアイドルだった。レコード販売からレコード会社を興し、航空業に参入し、自らも冒険家。ヴァージンについて書かれたものは片っ端から読んだ。「あの人は欠点が見えない」。そう西久保は語っている。
 そんな日本の“ブランソン”、破天荒な西久保を陰に陽に応援していたのが国土交通省航空局だった。とりわけJAL倒産前後の航空行政をつかさどった岩村敬、本田勝の両航空局長(後にともに事務次官)や篠原康弘航空事業課長は、「西久保さんは非常に合理的。機種を737に統一し、ユニットコストはJAL、ANAが14円台なのにスカイマークは8円台」とべた褒めだった。周囲が危ぶんだエアバス調達による国際線就航計画も「非常に勉強熱心で計画的にやっている」(篠原)と高く評価していた。そんな空気を感じて西久保も、一時は険悪だった航空局に頻繁に通うようになり、意思疎通に熱心だった。
 だが、JAL倒産時の航空界を取り巻いた経済環境はその後、激変。ピーチ・アビエーションなど新規競争相手の出現、円高は円安に、そしてJALは体力を回復した。
 西久保が育てたプロバイダー事業を買い取ったGMOの熊谷正寿社長は周囲に対して西久保の印象をこう語ったことがある。「レストランに行こうと一緒にタクシーに乗ったら、いきなり僕のネクタイをつかんで『熊ちゃん、俺たちはこんなものしちゃダメだぞ』って言うんですよ。あれが強烈な印象だった」。
 血税で助けてもらったJALに対して、全財産をつぎ込んだスカイマークの西久保。そのドンキホーテぶりは揶揄され、失敗は「やっぱり」と嘲笑されるが、なかなかこの国にはいないユニークな起業家ではあった。(敬称略)
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