ニューヨークのセントラルパークに面した「ザ・プラザ」は、シャトーに似せた造りの名門ホテルだ。30年前の1985年9月22日、日、米、英、独、仏の「G5」の財務相と中央銀行総裁が集まり、協調介入によるドル高是正で合意した。「プラザ合意」である。
G5は秘密会合が常だったが、成果を宣伝したい米国が、メディアに知らせた。冒頭にベーカー米財務長官や竹下登蔵相(財務相)ら参加者の写真撮影があった。
効果てきめん。1㌦=240円台だった円が、86年初めに200円を割り、87年初めに150円割れ、88年初めには120円60銭とドルが半値になる。
輸出産業が悲鳴を上げ、「円高不況」におびえた政府・日銀は、政策金利(公定歩合)を1年ほどの間に5回も下げた。公共事業も上積みし、内需振興の旗を振る。
過去最低2.5%の公定歩合が2年3カ月続き、銀行は企業に貸し込んだ。本業よりも財テクや不動産投資に血道をあげる企業も現れ、地価と株価に火がつく。「バブル」である。
「失われた○年」は通常、90年代初頭のバブル崩壊から数える。だが、バブルがなければ、崩壊も、後遺症もなかった。「失った」のは、バブル期も含めた30年なのだ。起点に立ち戻り「過ち」を検証してみる。
日米学者グループの研究では、1㌦=360円の固定相場からプラザ合意まで、円は一貫して過小評価(割安)だった。それでも日本には「円高恐怖症」が染みついていた。
71年8月、ニクソン米大統領が金とドルの交換を停止した。円が暫定変動制になり360円レートに決別すると産業界は大騒ぎで、政府は上値を抑える市場介入を続け、欧米から「ダーティー・フロート」と批判された。
同年末、多国間通貨調整で308円に16.88%の円切り上げが決まると、佐藤栄作首相は「相当高い切り上げで不況を招く…」と日記に記した。杞憂(きゆう)だった。
73年に主要通貨が変動制に移ったが、すぐに「石油危機」が起き、経常収支の悪化で円は弱含んだ。ボルカー米FRB(連邦準備制度)議長のインフレ退治の強烈引き締めも、高金利=ドル高に作用した。81年に発足したレーガン政権は「強いドル」を公言。居心地のよい円相場で、経常黒字が積み上がる。
片や米国で、経常収支と財政の「双子の赤字」が膨らむと、議会の保護主義圧力が高まり、米政府もドル安誘導による不均衡是正にカジを切る。仕上げがプラザ合意だ。
200円前後に着地させたい日本の当局の思惑を超え、市場が暴走した。円安に甘えるうち黒字が突出、円高を受け入れたら際限がなく、円高恐怖症がマクロ経済政策をゆがめた。弱みを知った米国も、円を人質に、あれこれ注文をつける。為替相場に振り回された日本。
実質実効為替レートのチャートを見比べると、同じ工業品輸出国のドイツは、マルク時代から振幅が一定の幅に収まる。対して円の軌跡は、まるで絶叫ジェットコースターだ。変動相場制との付き合い方を誤った――失った30年の、最大の理由かもしれない。
<次回は、来週掲載します>
それはプラザ合意で始まった |
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【失われたのは30年①】円高恐怖症がマクロ経済政策をゆがめた
公開日:
(マーケット)
プラザ・ホテル=Reuters
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土谷 英夫(ジャーナリスト、元日経新聞論説副主幹)
1948年和歌山市生まれ。上智大学経済学部卒業。日本経済新聞社で編集委員、論説委員、論説副主幹、コラムニストなどを歴任。
著書に『1971年 市場化とネット化の紀元』(2014年/NTT出版) |
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