1985年9月のプラザ合意がバブルの起点と前回、書いた。例外がある。東京都心部の地価だ。千代田、中央、港の都心3区の商業地は84年中に、すでに3割も上がっていた。
国際化、金融化、情報化がキーワード。黒字大国の首都・東京に、外資が押し寄せた。本社機能を移す国内企業も相次いだ。
「国際金融センター」化を見越した金融機関が目立った。テレビのキー局に代表される情報発信機能も東京に集中していた。コンピューター関連の情報機器を導入するにも、より広いオフィス空間が要る。
86年春、森ビルが再開発した赤坂、六本木にまたがる「アークヒルズ」が開業した。超高層オフィス棟の半分強を外資系14社で占め、11社がバンク・オブ・アメリカ、ゴールドマン・サックスなどの金融だった。「丸の内の大家」三菱地所が85年中に応じきれず断ったオフィス需要は、約400社分にのぼった。
折から「民活」ブーム。中曽根政権は、行政改革の一環として、遊休国有地や民営化する国鉄用地を一般競争入札で払い下げ、民間による再開発を促す政策を進めていた。
まとまったオフィス用地を求めるデベロッパーが飛びつく。84年春落札された品川駅貨物ヤード跡(現・品川インターシティー)は1000億円超、周辺の公示地価の4倍だった。千代田区の司法研修所跡、港区・六本木の林野庁官舎跡など、高額落札が相次いだ。
「待った」をかけたのが東京都。国公有地の高値落札が、地価高騰をあおっているというのだ。内閣官房副長官も務めた大物の鈴木俊一都知事は、公約の「マイタウン東京」構想で、都心一点集中型から多心型都市構造への首都改造を目指していた。
都庁の新宿移転も決め、新宿、渋谷、池袋など7つの副都心を想定。お台場を含む「臨海部副都心」開発も、その1つだった。
一方、金融外資などの立地希望は、日銀本店、東京証券取引所、大蔵省(財務省)などに近い従来の都心。鈴木都政が追求する「マイタウン」と、市場が求めた「グローバル・メトロポリス」には、ずれがあった。
だが、地価高騰が都心から、周辺、さらに郊外の住宅地に及ぶと、国も都の要求を無視できなくなる。87年10月「緊急土地対策要綱」で、土地取引の規制強化や国公有地の売却凍結を決めた。都心に近い汐留貨物駅跡地(21㌶)も含まれ、汐留開発(現・汐留シオサイト)は、10年近く塩漬けになった。
需給ひっ迫で地価が上がっている時に、供給を絞ったのだ。地価バブルは、まず大阪、名古屋圏、やがて全国に拡散し、全国ベースでは、91年に下落するまで燃えさかった。
仮に、汐留を即時売却し、丸の内の旧都庁跡(現・東京フォーラム)をオフィス用に開放するなどの手を打っていたら…。本来オフィス不足に起因する「東京問題」を、東京に封じ込められたかもしれず、バブルの山も低く、崩壊も早く、傷も浅かったはずなのだ。
拡散した東京バブル |
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【失われたのは30年②】「マイタウン都政」が問題を悪化させた
公開日:
(マーケット)
Reuters
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土谷 英夫(ジャーナリスト、元日経新聞論説副主幹)
1948年和歌山市生まれ。上智大学経済学部卒業。日本経済新聞社で編集委員、論説委員、論説副主幹、コラムニストなどを歴任。
著書に『1971年 市場化とネット化の紀元』(2014年/NTT出版) |
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