「マンデル・フレミングモデル」をご存知だろうか。2人の経済学者の名を冠した有名な理論で「固定相場制の下では財政政策が、変動相場制下では金融政策が効く」と説く。 変動制下で国債を増発し財政出動すると、金利が上がり、国外から資本が流入して為替相場を押し上げ、輸出を減らす。財政支出の効果が、通貨の上昇で相殺されるのだ。
ところが日本は、円高対策として懲りずに公共投資中心の財政拡大を繰り返してきた。
1985年9月のプラザ合意から円高が進み「円高不況」に陥ると、日銀の5回の利下げに加え、中曽根政権は87年5月、緊縮財政を一転し総額6兆円の緊急経済対策を決めた。後でわかったが、景気は前年暮れから回復過程にあり、バブルをあおった可能性がある。
日本に内需拡大を求めた米国の圧力もあった。日米構造協議で、日本は91―2000年の10年間に総額430兆円の公共投資を約束した「公共投資基本計画」を策定した。
バブル崩壊後も、毎年のように公共事業中心の景気対策が繰り返された。
宮沢政権は、92年に事業規模10.7兆円、93年に同13.2兆円の「総合経済対策」を打っている。いずれも公共投資が中心だ。非自民の細川政権も94年に公共投資と減税を中心に同15兆円強の、村山政権は95年に同14兆円強の、総合対策を出した。村山政権下で公共投資基本計画も95-04年の10年で630兆円に増額された。
マンデル・フレミングモデルが正しければ、円高を恐れた日本が、さらなる円高要因の財政出動に走ったのだ。円高で脅した米国のワナに、まんまとはめられた、とも言える。
度重なる財政出動で、今や日本政府の借金比率は先進国最悪になった。公共事業頼みの景気対策の結果、85年に530万人だった建設業就業者は、97年に685万人まで増え、これをピークに、14年には505万人に減った。膨大な数の人の職業キャリアが、狂わされた。
では「効く」とされた金融政策はどうか。 円高不況下の96-97年に、澄田日銀総裁は5回の連続利下げで公定歩合を過去最低の2.5%にし、そのまま2年あまり据え置いた。金融の超緩和が、バブルを膨らませた。 利上げに転じたのは89年5月。以降15か月間に澄田総裁が2回、後継の三重野総裁が3回の計5回で公定歩合は6%になった。当時、三重野氏はバブル退治の「平成の鬼平」とはやされたが、今ではバブルを急激に潰し過ぎ、傷を深めたとの負の評価が定着した。
確かに金融は「効いた」のだ。緩和も、引き締めも。ただし悪い意味で。
その後も緩和の不徹底がデフレをこじらせた。速水総裁の拙速のゼロ金利解除や、リーマン後の白川総裁の“緩和負け”。黒田総裁の異次元緩和で、経済界はやっと一息ついた。
米国はリーマン不況から立ち直った。バブル崩壊後のデフレを防ぐには①金融を大胆に緩め②通貨安にし③金融機関に公的資金を注入する、のがお勧めレシピかもしれない。
まんまと米国のワナにはまった |
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【失われたのは30年③】円高対策に公共投資・・・遅すぎた金融政策
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(マーケット)
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土谷 英夫(ジャーナリスト、元日経新聞論説副主幹)
1948年和歌山市生まれ。上智大学経済学部卒業。日本経済新聞社で編集委員、論説委員、論説副主幹、コラムニストなどを歴任。
著書に『1971年 市場化とネット化の紀元』(2014年/NTT出版) |
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