ブラジルの新型コロナウィルスの感染者数は92.8万人と米国に次ぐ世界第2位となり、数日のうちに100万人をこえそうだ。死者数も4.4万人と英国を抜き、これも米国(11.6万人)に次ぐ世界第2位となった。
中南米全体に感染は広がっており、世界人口の8%に過ぎないのに最近における死者数(1週間の平均死者数)の半分を占めるに至っているが、ブラジルの感染蔓延はその中でも突出している。
世界的にみても、ブラジルの前に世界第2位の死者数を出していた英国ですら死者数が二倍になるのに2か月を要したのに、ブラジルは僅か2週間で2倍になった。あまりの感染拡大急増に業を煮やした政府はいったん感染者数の公表を停止すると発表したが、内外の強い批判から撤回を余儀なくされた。
ブラジルに限らず、中南米全体でみても、欧州、アジアのように感染者数の増加をとどめることに失敗した共通要因はいくつかある。その要因として指摘されているのはインフォーマル経済の規模が大きいことである。
インフォーマル経済とは社会保障制度や正式な契約書をもたない、安い賃金で雇用主を数か月単位で変えていくような労働者に支えられた経済である。もちろん、GDPには含まれない非正式(インフォーマル)な経済を指す。
例えば、ペルーでは政府が国家非常事態宣言を発動したのに、GDPの70%を占めると言われるインフォーマル労働者が外出を控えずに働き続け、これが感染拡大につながった。
さらに指摘されるのはソーシャルディスタンス政策を採用しても、中南米では貧窮層の多くは、人口が密集したスラム街に居住しているので感染が広がりやすいことがあげられよう。
ブラジルでもインフォーマルワーカーや有名な”ファベーラ“(スラム街)に居住する多くの貧困層が新型コロナウィルスに真っ先に感染した。しかし、ブラジルがこれだけ多くの感染者・死者を出すに至ったのにはボルソナロ大統領のポピュリズム的手法に基づく政治責任が大きいと指摘されている。
同大統領はコロナウィルスを「簡単な風邪にかかったようなもの」と影響を軽視し続けたため、空港閉鎖、国境閉鎖などの措置が遅れた。また同大統領は遊説でも支持者と握手を交わしてハグをする、という従来と変わらないスタンスを続け、意に介さぬ姿勢を見せ続けている。
「ブラジルの人口2.2億人のうち70%程度がウィルスに罹患しよう。これは避けられないことだ」との発言を繰り返してきた。
同大統領は、感染防止のため、トランプ米大統領と同じく抗マラリア剤であるクロロキンを服用している。副作用が大きく公衆衛生当局からも認められていないこうした薬を国民に服用させて感染を防ぐようにと保険相に強いたこともある。
すでに感染防止をめぐる大統領との方針不一致で保険相2人が立て続けに辞任した。
ボルソナロ大統領が経済優先を叫び続けているのは、ブラジル経済の悪化が確実視され経済困難に陥った国民、特に貧困層からの批判を受ける政治的責任を回避する巧妙な手法でもある。
ブラジルでは州知事が感染防止策の権限を有しているため、ボルソナロ大統領の圧力をかわして、サンパウロ州知事らが先頭になってソーシャルディスタンス、社会的隔離措置などの防止策に努めた。
このため、同大統領は景気がさらに悪化するのが確実視されている中で「社会的隔離政策等に俺は反対してきた。景気悪化の責任は彼らにある」と指弾することができる。
ブラジル経済はルセフ元大統領の経済失政で2015年、2016年と3%台のマイナス成長となった後も低成長を続けてきた。2019年1月には元軍人で極右主義者であるボルソナロ大統領が就任、奔放な発言やナショナリスト的思考から「熱帯のトランプ」(tropical Trump)と称されていた。
汚職撲滅と経済構造改革を推進するとともに、長年政権の座にあった労働党が推し進めてきた「大きな政府」を否定し「小さな政府」の実現を訴えて政権を奪取した。
実際、シカゴ大学で博士号を取得し、経済政策を一手に担っているゲぺス経済相は、財政硬直化をもたらしてきた社会保障政策の見直しなどの財政改革を成し遂げてきた。
しかし、経済の低成長が改まらないところに新型コロナウィルス感染の拡大が起きた。社会的隔離政策の実施などに伴う経済活動の縮小は顕著である。
4月の小売売上高は前月比16.8%の記録的な減少をみた。製造業のPMI(購買担当者景気指数)も36.0(4月)と2006年の同指数作成開始以来の最低水準となり、失業率も12.6%(4月までの三か月移動平均)に達している。
こうした下で、今年の実質成長率は民間エコノミストの平均で-7%という最悪のマイナス成長に陥るものと予想されている。財政赤/GDP比も-19%(ゴールドマンザックス社推計)と最悪水準に達するとみられる。
経済改革を担ってきたゲデス経済相もいったんは経済構造改革を延期せざるをえないのは確実だ。
ブラジルと言えば、かつては歴代政権が高度成長と財政改革を公約してきたため、海外投資家にとって格好の投資先であった。相対的に金利も高く、いわゆるキャリートレード先として低金利にあえぐ欧米諸国や日本から注目されていた。
しかし、ブラジル中銀は5月には経済の深刻な悪化を受けて政策金利を一挙に0.75%引き下げて3.0%としたうえ、さらなる追加緩和を示唆している。すでに海外投資家はブラジルから逃げ出している。
国際金融協会(IIF)によれば、2月~5月の累計では株式市場からは海外へ118億ドルも資金が流出、債券市場からも2~4月の累計で187億ドルも流出している。このペースはブラジルにとっても2008年9月に起きたリーマンショック時の2倍のペースである。
先ごろ発表された国際収支をみても1~4月の証券投資は339億ドルの流出超(前年同期は41億ドルの流入超)となっている。
同国通貨レアルも年初来で一時30%を超える大幅な下落をみており、債務返済負担の一段の増大が懸念されている。すでに格付け会社ではS&P、フィッチがともにブラジルの格付けをBB⁻(ジャンク債等級)、格付け見通しを各々ポジティブから安定的、安定的からネガティブに引き下げている。
ただ、実質金利がマイナスに陥ったため、ブラジルの民間部門が高利回り資産として株式、債券投資に向かっていて、海外資本の流出額に見合う投資を行っている。
政治面でもボルソナロ大統領に対する支持率は30%を下回り、同大統領のコロナ危機対応についても50%以上が反対を示している。また汚職摘発で人気のあったモロ法相もボルソナロ大統領の子息(上院議員)を巡る捜査で大統領と捜査当局の板挟みにあって辞任せざるを得なくなった。
ボルソナロ大統領は、汚職撲滅、経済改革の推進を公約に掲げて当選したものの、コロナ危機へのまずい対応、経済失速、親族の汚職などで再選には赤信号がともってきた。
ボルソナロ大統領は軍人出身であり、軍隊の厳しいルールを好んでいるだけでなく、政府機関に100人以上の軍人出身者を送り込んでいて、19年1月の内閣立ち上げの際には閣僚22名のうち8名が軍人出身者で占められていた。
したがって、再選が不可能とみるや、クーデターで軍事政権を樹立するのではないか、と懸念する見方もある。
しかし、いったん確立された民主主義を崩すのは難しいと思う。すなわち、ブラジルでは軍事政権が20年間も続いたが、1985年の累積債務問題に伴う経済危機で軍事政権が打倒されて以来、民主的な政権が続いてきた。
軍事政権は他国の事例と同様に反対者の抹殺・追放や言論統制、検閲体制の強化を図って民心が離反した。1988年に新憲法が制定されて民主的政治体制の基礎が築かれた。
それ以来、軍隊は政治から遠ざかり、選挙で選ばれた大統領に忠誠を誓ってきた。軍隊に対するシビリアン・コントロールの下で、最高裁、議会、独立心に富むメディアがブラジルの民主主義体制を支えてきた。
この民主的勢力が二人の大統領を不法行為で追放するだけの力を発揮してきた。とはいえ、新型コロナウィルスの蔓延に伴い、世界一と言われる所得格差が一段と拡大して、貧困層がさらに増大するのは確実であり、その不安定な社会構造が民主主義を蝕んでいきかねない可能性は大きくなっていることには注意が必要である。