世界景気はスタグフレーション(不況なのに高インフレ)に陥るのか懸念が広がっている。
その一番の理由は不適切な財政金融政策の組み合わせにある。もともと、米国や欧州で2020~21年に採られた財政金融政策が過大な需要刺激効果を生んだ反動が来ているからだ。
世界経済の現状をみると、
①米国のFRBの金融引き締めによる景気スローダウン懸念
②欧州の企業、家計が収益や実質所得の急速な低下に襲われていること③中国もゼロコロナ政策に基づく厳格なロックダウンの影響で成長率見通しが下方屈折していること
④貧しい開発途上国ではインフレや食糧危機に見舞われて国民の不満が高まっていること
ーーなどの困難に直面している。
このような4つの次元の異なる諸問題は世界経済をスタグフレーションに追い込む要因となりそうだ。
パンデミックから立ち上がりつつあった世界経済が急速に暗くなっていったのは無理もない。ロシアのウクライナ侵攻前までは2022年の世界経済は力強い景気回復の年になるとの予想が一般的であった。
企業はコロナ後にフル操業に戻り、消費者も蓄積された余剰貯蓄を、コロナ感染で抑制され続けてきたホリデーの旅行あるいは外食などの消費行動で一気に吐き出すに違いないとみられていた。
しかし、その予想は大きく覆された。コロナ感染後の経済正常化の過程で需要が増えたうえサプライチェーンの混乱が加わって欧米で数十年ぶりという高いインフレ率に見舞われた。
そこにウクライナでの戦争勃発でエネルギー、穀物価格がさらに上昇するというダブルショックに遭っているのが現状だ。
金融資本市場では敏感に世界経済の景気後退を予測している。MSCI世界株価指数は5月の1ヶ月で5%以上下落、1月初めのピークからは18%の大幅下落を記録している。
大量売却は株式だけでなく債券の売り(金利は上昇)、産業用の金属(銅、アルミほか)、金、仮想通貨にまで一斉に広がっている。このようにすべての金融資産や商品が売られるのは1981年初にボルカーFRB議長が思い切った金融引き締めに出て景気後退をもたらした時以来である。
IMFの見通しでは2022年の世界経済(143か国)の成長率は1月時点で4.1%であったのが4月には3.3%に急速に低下した一方で物価上昇率は1月の3.75%が6.2%に高まった。
まず米国経済の軌跡を振り返ろう。
ラリー・サマーズ元財務長官が「コロナ対策として採られた米国の財政支出が過大であったこと、さらにFRBもインフレ率が上昇を続けているにもかかわらず長期に緩和し続けた」ことが高インフレにつながったと厳しく批判を続けた。
その後の展開をみると、まさにその通りであろう。
たしかに米国は物価・賃金上昇の悪循環に陥りそうな気配である。3月の消費者物価前年比は8.5%に達している。2021年以降、名目需要は年率6%程度の拡大を続けてきた。足元の一年間では年率12%にも達している。
雇用面でも求人数が求職者数を500万人上回るという需給タイトな状況にある。賃金も5%程度の上昇となっているが、実質賃金はそれでもマイナスである。
物価=賃金のスパイラルが懸念される所以である。これを食い止めるためFRBは年内に政策金利を2%強まで引き上げると推測されている。
FRBは昨春頃にはインフレは「一時的」(transitory)とミスジャッジしてきたが、さすがに昨年11月以降、インフレ抑制を最優先してきた。すでに政策金利は1%まで引き上げられたが、6、7月とさらに0.5%ずつ、2%まで引き上げる見通しだ。
パウエルFRB議長は利上げの進行にもかかわらず、景気のソフトランディングを図るとしている。しかし、景気が後退するまで引き締めを図らなければ8%を越えるインフレ率がFRBのインフレ目標である2%まで収束することはないとの指摘も多い。
次は欧州である。すでに2022年第一四半期のユーロ圏経済成長率は0.2%に過ぎず、インフレ率は5月の消費者物価前年比で8.1%とユーロ圏創設以来の高さとなっている。
欧州中央銀行(ECB)は南欧諸国への配慮などから金融引き締めに転換するのを躊躇してきた。しかし、ハト派の代表格であったラガルド総裁も7~9月に量的緩和を終了させたうえ、利上げによって9月までにマイナス金利(現在-0.5%)を解消する意向を表明した。
ウクライナで戦争が起きる以前から英国やユーロ圏においてはサプライチェーンの混乱ならびに金融超緩和と拡張的な財政政策のポリシーミックスの下で緩やかに景気は回復していた。
物価面ではエネルギーコストの上昇が目立ってきた。ドイツでは生産者物価がガス価格の急騰によって1949年以来最大の上昇幅となっている。
ユーロ圏諸国はロシアからのエネルギー供給依存度が高く、とくに天然ガスの依存度は40%に達している。今後、ドイツ、イタリア、スペインなどロシア産ガスへの依存度がとくに高い国々でエネルギー価格の一段の上昇が懸念されている。
ポーランド、ブルガリアがルーブル建て決済を拒否したとの理由でガスプロムからのガス供給を絶たれているが、こうした動きが拡がれば、2010~11年の欧州金融危機、2020年のコロナ危機以上の戦後最大の経済危機に直面しよう。
英国も今年は物価の高騰から1950年代以来となる実質所得の大幅低下が予想されている。さらに輸入インフレの高進や労働市場の需給タイト化も加わってインフレ率の一段上昇が見込まれている。
この間、労働市場では失業率が1970年代以来の最低水準を更新しそうである。このような状況の下、英国では年末まで今後数次にわたる利上げで政策金利が2%を越えるのは不可避であるとみられている。
中国は世界GDPの17%のシェアを持つ世界第二の経済大国として世界のサプライチェーンにとって不可欠な存在である。しかし、中国は4月の景気指標などからみて景気減速が明らかである。
これは習近平政権によるゼロコロナ政策で上海、北京、天津などの大都市で厳格なロックダウンを実施してきたためである。4月の小売売上高が前年比―11%の大幅な落ち込みを見せた。
鉱工業生産も自動車工場の閉鎖などから前年比―3%と落ち込んだ。中国人民銀行の金融緩和にもかかわらず、住宅販売もコロナ初期の2020年初期よりも大きい落ち込み幅となった。今後も企業、消費者コンフィデンスの弱まりによって支出行動は低下していこう。
新興国経済の様相は先進国と比べて一段と深刻である。
多くの新興国では、食料価格の上昇、国際収支の悪化、自国通貨安に伴う対外債務支払いの困難化、などから最もひどくスタグフレーションの被害を受けそうである。
ウクライナでの戦争で世界有数の穀物輸出国である同国の穀物積出し港が閉鎖された影響で穀物、小麦、とうもろこしなどの食料価格の高騰が続いている。
その影響はアフリカ、中近東などを中心とする新興国で一層深刻である。エンゲル係数の高い新興国の国民はおよそ支出の3割を食料品が占めるからである。
国連など国際機関も栄養不足にとどまらず餓死に至る事態への懸念を表明している。すでに最貧国のひとつであるスリランカではエネルギー価格の高騰や食料危機で通貨も暴落、初のデフォルトを起こしている。
このように世界経済は多難であり、インフレの急騰と成長率の鈍化に襲われた1970年代と比較されることも多い。たしかにパンデミックと戦争というダブルショックによって惹き起こされた今回のサプライショックは石油ショックを二度経験した1970年代以来で最大の規模かもしれない。
しかし、IMFや民間エコミストは1970年代の悪夢、すなわち10年に亘って家計、企業に苦痛を与えた時代が再現するとは見ていない。
現在は1970年代ほどインフレ率が高くないうえ、多くの中央銀行が独立性を得ており、金融政策運営に対する信頼度も当時に比べれば格段に上がってきている。景気が悪化すれば、財政政策の発動も期待できる。
1970年代と大きく違うこともある。何といっても1970年代と違って気候変動化対策として化石燃料への依存度が低下していることが大きい。
またパンデミックのおかげで家計は余剰貯蓄を抱えているうえ、各国政府ともガソリン補助金などを通じてエネルギー価格上昇の効果を抑えるように動いている。資源配分の観点からは問題含みではあるが、家計にとってのクッションとはなっている。
このままであると、インフレが高騰して成長率見通しが悪化、個人の購買力や企業収益が棄損されることになろう。1970年代のようなスタグフレーションにはならないとはいえ、スタグフレーションのような気分に陥ることはあり得よう。
とくに注意を要するのは先進国の低中所得層や新興国などがもっとも大きく悪影響を受けることで政治的な不安が助長されかねないことだ。
また民間ならびに政府部門の債務水準は超金融緩和の影響で歴史的な高水準にあり、金融危機が起こる確率も低くはないと見ておくべきであろう。
もっとも、各国の中央銀行は世界が金融クラッシュに陥る段階になれば、さすがに金融引き締めモードから金融政策の正常化を目指すであろう。
世界経済が景気後退から逃れるためにはロシアのウクライナからの撤退、中国のゼロコロナ政策放棄であろう。それが起こらない確率は高い。
さらに現時点では成長率、物価の見通しともに楽観的過ぎるきらいがある。おそらくインフレ率は予想より高く、成長率は思ったほど高くはならない。
しかし各国の政策当局はスタグフレーションに陥るのを座視しているとも思えない。スタグフレーションに臨む基本的なポリシーミックスは金融引き締めと財政刺激策である。
金融政策はインフレ抑制を最優先にして、インフレ期待値の上昇を食い止めるべきだ。一方で財政政策は落ち込む需要を刺激する役割を果たす必要がある。
その際には所得補償や補助金支出ではなく、気候温暖化防止対策やインフラ整備など将来の世代も恩恵を受ける支出を拡大すべきであろう。