英ポンドは、7つの海を支配した大英帝国時代には当然のことながら基軸通貨であった。
第一世界大戦で経済が疲弊して植民地も次々と失い、基軸通貨の地位を同大戦後、世界最大の債権国となった米ドルに譲っていった。
昔の探偵小説を読むと、殺し屋が依頼主から請負報酬の金額を示されて「その報酬は英ポンドか米ドルか」と問う場面があった。1ポンド=5ドルという時代であって、現在が1ポンド=1.25ドルなので今の4倍の価値があった。
小生の記憶でもポンドの対円レートは固定平価時代には1ポンド=1,008円であった。現在は120~140円であるのでおよそ8倍の価値があった。
英ポンドは凋落の歴史を繰り返してきた。それでも、取引量、流通量の多い世界の5大通貨といえば、米ドル、ユーロ、日本円、スイスフランに加えて英ポンドがその一角に食い込んでいた。
為替市場では値動きの大きい「ケーブル」(その昔米ドルと英ポンドの為替レートが海底ケーブルを通じて伝えられたことにちなむもの)との愛称で親しまれていた。
しかし、2016年に国民投票でEU離脱に舵を切って以降、英ポンドは再び凋落の兆候が見えている。さらに最近では英国のEU正式離脱まで半年を切った現段階でもEUとの自由貿易協定(FTA)の締結も進みそうもない。このままでは「ノーディール」という合意なき離脱にならざるを得ないという最悪シナリオの確率が高まっている。
このため、英ポンドは現在の1ポンド=1.25ドルから年末には少なくとも1.1ドル、対ユーロでも1ポンド=1ユーロから0.9ユーロまで低下するであろう、というのがマーケットの多数説である。
それだけでなく、英ポンドは英国経済、対外貿易の縮小が確実ななかにあって、先進国通貨から転落してローカルカレンシーの地位に落ち込んでしまったようにみえる。
前述のようにかつての英ポンドは取引量が多く、流動性にも富んでいた。しかし、EU離脱の先行きが不透明であり、政策の行方もはっきりしない。このため、市場から次第に敬遠されているうちに取引量の厚みや流動性が細ってきた。
先進国通貨が好んで取引されてきたのは政治や経済の先行きが読みやすく可視性に富み、流動性にも飛んでいたからだ。英ポンドは可視性、流動性からみてむしろ、新興国通貨の中ではもっとも取引が多いとはいえ、メキシコ・ペソや南ア・ランドなどと同列にあつかわれるようになった。
英ポンドはEU離脱前と比較すると現在では20%ほど減価してきた。コロナウィルスの感染が急速に広がり、米国に次ぐ世界第2位の感染者数、死者数を記録したことも減価につながっている。現在はブラジルに抜かれて第三位となっているが、それでも死者数は4万人を越えている。こうした中で英ポンドは上下に激しく変動してボラティリティーは世界の中でブラジル・リアルに次ぐ大きさを示した。
コロナウィルスの感染がピークとなった3月中旬には、英ポンドは対ドルで数十年ぶりの安値を付けた。その後、FRBやECBなどによる大幅な金融緩和により小戻した。しかしEUとの離脱交渉が暗礁に乗り上げ、さらに今年上半期の実質成長率が30%を超えるマイナスとなりそうであり300年ぶりの大幅な景気後退となりそうである。さらにイングランド銀行がマイナス金利の導入に踏み切るのではないかとの観測も加わって英ポンドに売り圧力が増している。
為替の下落をもたらしてきた根源的な要因は、英国が長年にわたって財政赤字、経常収支赤字という双子の赤字に悩まされてきたことである。財政赤字は、今回のコロナウィルスの感染拡大に伴う経済悪化を緩和するため、巨額の財政支出を強いられてさらに拡大する見通しだ。
経常収支も北海油田がすでに産出量のピークを過ぎたうえ、世界的な原油価格下落も加わって原油輸出が落ち込んでいる。一方で、国内産業が衰退して消費財、投資財を国内でまかなうことができずに輸入が高水準を続けているため、経常収支の慢性的赤字は改まっていない。
とどめはEUとの離脱交渉の不調である。
英国側は、自動車、医薬品、農業、金融などの重要産業に対するFTA締結を楽観視している。しかし、ブラッセル側は良いとこ取りを許さないという基本スタンスに揺るぎはなく、英国側の希望的観測(wishful thinking)に過ぎないと一刀両断である。
英国と「特別な関係」にある米国とのFTA交渉も米国側がNHS(National Health Service;英国の健康保険制度)に対する医薬品の門戸開放を条件にしているほか、英国側も遺伝子作物(米国産大豆など)の輸入制限にこだわるなど交渉は暗礁に乗り上げている。
結局、英ポンドは双子の赤字と通商交渉の不調にさいなまれて、売り圧力の増大に見舞われるとともに、メキシコ、南ア通貨並みの注目しか浴びずに流動性にも乏しいローカルカレンシーへの没落が進んでいきそうである。