日本では、これを教訓にわが身を振り返れという議論が多い。日本の政府債務残高はGDP比で英国よりずっと大きいうえ、岸田政権が大規模な補正予算を打ち出すなど財政拡張に歯止めがかかっていないからである。
英国の事例をそういう意味で他山の石とすべきというのは、誰もが思う常識的な受け止め方であろう。その一方で意外に論じられていないのは、「供給制約が主因のインフレにそもそもどう対応すべきか」の根本論である。トラス政権の失敗も元はと言えば、インフレに苦しむ国民を救いたいという善意から出た面がある。
一般に、インフレに責任を持つのは金融政策であるとされる。実際、日銀を含めて多くの中央銀行が、制度として「物価の安定」への責務を負っている。なぜそうなっているのかというと、物価は「貨幣的な現象」という考え方が理論的には正当とされているからである。
ここで「貨幣的な現象」というのは、文字通り貨幣量と物価が比例するわけではないにしても、最終的に物価を決めるのは金融政策という意味である。
そのような理解の仕方が最も当てはまるのは、すべての物やサービスの価格がほぼ同じようなペースで上昇し、賃金にもそれが反映されているような場合である。相対価格や実質賃金にあまり変化がないまま、実質値と名目値の乖離だけが進行する場合と言い換えてもよい。
理論的にはそれこそが「真のインフレ」であり、なるほどその場合なら、実体経済に比べて余分な貨幣を回収すれば実質値と名目値の乖離がなくなる(=インフレが収まる)と言える。
こうした理念的に純粋なインフレは現実には稀であるが、総需要が強すぎることで起きるインフレは、それに近いものとみなせる場合が多い。景気が過熱すればインフレになり、不況になればデフレになるというように、経済全体の「体温計」としての物価変動には、金融政策で対応するのが適切である。
しかし、現実の物価はそれとも異なる形でしばしば人々の暮らしに影響を与える。今、世界中で起きているインフレは、需要が強すぎることによる物価高というよりも、エネルギーや食料などの供給制約によるコスト増という面が大きい。さらにその元をたどれば、コロナ禍やウクライナ危機といった異例の出来事がある。
供給制約に起因するインフレは、しばしばコストプッシュ・インフレと言われる。コストの上昇は企業収益を圧迫し、生計費の増加は家計を苦しめるので、景気にはマイナスである。
さらに、元の原因がコストプッシュでも中長期的なインフレ予想が高まりすぎるリスクがあるなら、中央銀行も金融引き締めに動かざるをえず、それがさらに景気の悪化をもたらす。このようにコストプッシュ・インフレは、景気後退下の物価上昇(スタグフレーション)になりやすい。

門間一夫著、日経BP社、2022年9月15日、税込み2640円
投資の促進で供給力が強化されるには長い時間がかかる。当面のインフレ抑制の役には立たず、むしろ需要面からインフレを悪化させかねない悪手だった。結局、エネルギーのような生活必需品が供給不足の時、短期的にできることは「消費の我慢」にほぼ限られる。社会全体で我慢が必要という現実がすぐに変えられない以上、政府にできるのは「誰にどれだけ我慢してもらうか」を決めるだけである。
痛みをどう分けるかについては、「低所得層がさらに生活を切り詰めるよりも、ゆとりのある人々が我慢すべき」と考えるのが妥当であろう。したがって、コストプッシュ・インフレの時に、低所得層へ所得支援を行うのは理に適う。ただし、英国のようにインフレが既に10%に達している場合、需要全体はむしろ抑えなければならない。低所得層に支援する以上の負担を高所得層に求め、全体として緊縮財政にする必要がある。
もちろんそれは政治的に不人気な政策になる。トラス政権はそこに踏み込む覚悟やリーダーシップを欠き、むしろ「金持ち優遇」にも見える所得税や法人税の軽減を打ち出してしまった。「経済成長すれば国民をインフレから救える」という甘い夢にすがってしまった点が、トラス政権のお粗末さであった。
日本は英国から財政健全化の重要性を学ぶべきだと考えるのは間違いではないが、財政健全化を目指すなら、誰がそれを負担するのかという分配ビジョンもセットで議論しなければならない。インフレや財政赤字はマクロの問題に見えるが、それへの対応には分配政策に切り込む政治の意志が要求される。
分配政策には困難を伴う。しかしそれを避け続けていれば、トラス政権のような大盤振る舞いによる失敗や、逆に一律の財政緊縮で低所得層を困窮に追いやる失敗が、今後も世界でいくらでも起きるであろう。