カンザスシティ連銀が主催し、毎年8月下旬に開かれる経済シンポジウム。通常は風光明媚なワイオミング州・ジャクソンホールで行われるが、今年は公開オンライン形式で行われた。その機会を利用し、連邦準備制度理事会(FRB)のパウエル議長は、新しい金融政策の枠組みを世界に向けて発信した。昨年来の政策レビューを踏まえたものである。
目玉は2%物価目標の事実上の強化である。具体的には「取戻し戦略(make-up strategy)」と呼ばれる考え方の採用である。実際のインフレ率が目標をしばらく下回ってしまったら、その後は目標よりも高いインフレ率を目指し、長期平均で確実に2%近辺を達成する、というものである。
そのメリットは、中長期的なインフレ期待を2%前後で安定させることにあるとされる。「10年もすれば物価は2割ぐらい上がっているだろう」という相場観が社会で共有されていれば、その相場観が短期的にも価格設定や賃金交渉に反映されるため、インフレは実際に2%近辺で安定しやすくなる、と考えられている。
FRBが2012年に物価目標政策を正式に採用して以来、米国のインフレ率はほとんどの期間で2%を下回ってきた。このままだと日本のようになってしまう、という危機感がFRBにはある。日本は、10年経っても物価水準は今とあまり変わらないだろう、という常識が浸透している国だ。いったんそうなってしまったら異次元の金融緩和も効果を発揮しない。そのような事態をFRBは未然に防ぎたいのである。
しかし、FRBの新しい方法で「日本化」が避けられるかどうかは微妙である。「長期平均で2%を達成する」と中央銀行が約束すれば実際にそのようになる、というのはあくまで理論上の話である。
しかも、現代の中央銀行が好んで用いる理論では、「やや長い目で見れば、金融政策は物価に決定的な影響力を持つ」という最も肝心な命題が、実は最初から前提とされているに等しい論理構造になっている。「理論」と言えば科学的に聞こえるが、これは一種の「世界観」と呼んだ方がよい。
FRBの苦しさは、このあやふやな「世界観」以外に、もはや頼れるものはないという点にある。FRBはマイナス金利には乗り気ではない。イールドカーブ・コントロールや株式ETFの買入れにも、問題が多いと考えている。そもそもそれらに物価を押し上げる効果がないことは、この数年で日銀が証明してしまった。
その点「取戻し戦略」なら、有効性を主張するおびただしい数の学術論文や論考が存在する。他の中央銀行が未採用なので、失敗したという前例もない。ならば試してみるべきだ、というFRBの姿勢は一応筋が通っている。
しかし繰り返すが、裏付けとなっている「理論」はある種の「世界観」に過ぎない。しかも、「取戻し戦略」と似たような戦略なら、すでに採用して失敗した前例がある。日銀が2016年に導入した「オーバーシュート型コミットメント」である。
これは、インフレ率が安定的に2%を超えるまでマネタリーベースの拡大方針を継続する、というものである。「取戻し戦略」よりもやや緩い形ではあるが、目標を上回るインフレ率を目指すことで人々のインフレ期待を上向かせる、という本質的な部分は同じである。日銀がこの約束を決めてから今月で4年になる。効果がみられないばかりか、その存在すら忘れ去られた感がある。
FRBは直近6月の経済見通しで、インフレは2022年末まで2%を下回り続けるとしている。その間の累積未達分を一掃し、長期平均で2%を実現するには、2023年以降順調に2%をやや上回るインフレが続いたとして、2025~26年頃までかかる計算だ。実際には、それすら楽観的なシナリオだと言わざるをえない。コロナ前、10年を超える大型景気の下でもインフレは上がらなかった、というのがトラックレコードだ。
どうやらFRBのゼロ金利政策も出口が見えなくなってきた。日本は25年、欧州も10年以上、ほぼゼロ金利(ないしマイナス金利)の状態が続いている。そして、米国も「永遠のゼロ」クラブに加わりつつある。
そもそも中央銀行が2%インフレを目指すのは、常時その程度のインフレがあれば、金利も相応の水準まで引き上げておくことができ、政策発動の余地を確保できると考えているからである。
しかし、その状態を手に入れたいと思うあまり、ゼロ金利を5年も10年も続けなければならないなら、これ以上皮肉なことはない。政策発動余地の確保が上位目的なのに、政策発動余地を長期にわたり放棄するという矛盾が、低インフレ下の物価目標政策にはつきまとう。
ゼロ金利の間に再び景気後退が来て物価が2%から遠ざかっても、まともに戦える術はなく、ゼロ金利をさらに延ばすしかない。悪循環の果てに到達する長期均衡が「永遠のゼロ」である。
FRBは今回と同様のレビューを、今後は5年に1回程度行うという。2025年前後の次のレビューの時、FRBは上記の矛盾を認識せざるをえなくなっている可能性がある。
その時は、物価目標政策そのものの見直しが進むことを期待したい。確実に言えるのは、先進国の金融政策の役割は、2%物価目標の実現から、コロナ危機で発揮されたような金融市場の安定へと、実態としては既にシフトしつつあるということである。そして、それで良いと思う。
中銀の役割、物価・景気から市場安定に変質 |
あとで読む |
【門間前日銀理事の経済診断(34)】FRBの「取戻し戦略」 2016年の日銀失敗に似る
公開日:
(マーケット)
FRB本部=Reuters
![]() |
門間 一夫(みずほ総合研究所 エグゼクティブエコノミスト)
1957年生。1981年東大経卒、日銀入行。調査統計局経済調査課長、調査統計局長、企画局長を経て、2012年から理事。2016年6月からみずほ総合研究所エグゼクティブ・エコノミスト。
|
![]() |
門間 一夫(みずほ総合研究所 エグゼクティブエコノミスト) の 最新の記事(全て見る)
|