いくつかの国でワクチンの接種が始まり、「トンネルの先に光が見えた」が合言葉のようになっている。それと同時に出てきたのは、今年はインフレ率が意外に上がるのではないか、という見方である。
経済が回復する過程でインフレ率が一時的に高まる可能性は、それなりにありそうだ。コロナ禍においては、所得が落ち込まなかった人たちもサービス消費を控えたため、そのペントアップ需要が一気に顕在化すれば、需給が一時的に引き締まることは十分考えられる。
昨年は、春先の原油価格の急落や、サービス需要の大幅縮小など、一時的な要因もインフレ率の低下に寄与した。今年はその反動で、自然体でも物価の前年比は高く出る。米国では今年の春以降、昨年の反動というだけでインフレ率が一時的に2%を超える可能性が高い。日本でも、Go To トラベルにより宿泊料金が低下した分、今後はその裏が出る局面で物価の前年比は上がる。
もちろん、こうした「前年の裏」要因でインフレ率が表面上高まることに実質的な意味はない。また、ペントアップ需要の影響で実際に物価が上昇するとしても、それは一時的なものにとどまる可能性が高い。連邦準備制度理事会(FRB)のパウエル議長も、1970年代と今では物価の形成のされ方が全く異なるため、一時的な物価の上昇が持続的なインフレに転化する可能性は低い、と12月の記者会見で述べている。
それでもコロナ禍をきっかけに、過去30~40年間の低インフレの時代は終わる、という大転換の可能性が指摘されている。Economist誌は昨年の12月12日号で「インフレは再来するか」という記事を掲載し、そうした見方の基礎となる仮説を三つ紹介している。
第一に、コロナ禍への対応として採られた大規模な金融財政政策の影響が、今後インフレ圧力として現れてくるという仮説である。筆者はこの見方には極めて懐疑的である。中央銀行のバランスシートの拡大が物価にほとんど影響を与えないことは、これまでの経験で十分証明されている。財政政策についても、ひとたびコロナ禍が収束に向かえば、多くの国で財政健全化へと舵が切られていく可能性が高い。
第二に、グローバル化の後退および人口の高齢化が、インフレ時代への転換をもたらす構造的な圧力になるという仮説である。かつて英中央銀行の政策委員も務めたグッドハート名誉教授が、最近の共著で展開している議論である。
中国製品などとの競争による賃金抑制メカニズムが減衰する一方、高齢化で労働供給にも制約がかかるため、先進国の労働者は賃金交渉力を取り戻すという見方である。しかし、これもあまり起こりそうもない。株主へのリターンを重視する考え方がかなり変わらない限り、企業は賃金交渉における優位性を保とうとするであろうし、そのための技術革新やビジネスモデルの工夫を進めると考えられる。
第三に、政策当局がインフレを望んでいる以上、いずれはインフレになるという仮説である。確かに先進国の中央銀行は、低インフレ克服のため、2%を超えるインフレ率も許容する姿勢にある。政府も国債残高が大きく積み上がっているため、インフレによって実質的な債務負担を減らしたいという誘因を持つ。
しかし、インフレを起こす手段が見つかっていない以上、「姿勢」や「願望」だけでそれを実現することはできない。先進国の中央銀行は、これまでも物価目標に強くコミットしてきたが、その目標は長いこと未実現のままである。
こう考えてくると、コロナ禍をきっかけに先進国経済がインフレ体質に転換するという主張には、あまり説得性がない。上記Economist誌も実はそういう結論だ。しかし同誌は、「インフレは来ない」という前提で広範な金融資産が値付けされている現状に対し、万が一インフレになった場合の混乱は計り知れない、と警告することも忘れていない。
それもおそらく正しい指摘だろう。パウエル議長は上記12月の記者会見で、株価の過熱状況や高水準の企業債務に心配はないか、と聞かれた。パウエル氏の答えは「低金利だから心配ない」というものであった。
株式市場関係者が注目するCAPE(Cyclically Adjusted Price Earnings Ratio)という指標がある。イエール大のシラー教授が考案したもので、株価の割高感を評価する指標とされる。これが最近、普通に見ればかなり割高と考えられる水準まで上昇している。しかし、この指標を金利水準で調整すれば今の株価は割高ではない、という分析をシラー教授自身が示し、市場でも話題になった。
ひとたびインフレが起きれば、誰もが想定している「低金利の長期化」というシナリオは崩れる。インフレが来ない方に賭けること自体は正しい選択だと思うが、賭けがあまりにも一方的であるため、それにより資産価格が過剰に押し上げられている可能性は否定できない。いつのまにか「賭け金」がずいぶん上がってしまったと言える。
可能性がほとんどないとは言え、2%を超えるインフレが半ば常態化するようなリスクシナリオに対して、世界の金融システムは十分に頑健なのだろうか。金融機関も金融当局もストレステストをしっかり行い、リスクへの備えだけは盤石にしておいた方がよさそうだ。
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【門間前日銀理事の経済診断(38)】万一インフレが起きたら、金融システムは大丈夫?
公開日:
(マーケット)
シラー教授=ccbyWorld Economic Forum
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門間 一夫( みずほリサーチ&テクノロジーズ エグゼクティブエコノミスト)
1957年生。1981年東大経卒、日銀入行。調査統計局経済調査課長、調査統計局長、企画局長を経て、2012年から理事。2016年6月からみずほ総合研究所(現みずほリサーチ&テクノロジーズ)エグゼクティブ・エコノミスト。著書に『日本経済の見えない真実』(日経BP社)
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