米国経済が過熱してインフレになるかどうかが注目されている。
発端となったのは2月上旬、かつて財務長官も務めたサマーズ教授(ハーバード大)が米紙への寄稿で放った警告だ。
バイデン政権がコロナ対策として打ち出している1.9兆ドルの財政支援は、需給ギャップに比べて過大でありインフレを招いてしまうというものである。ブランシャール教授(マサチューセッツ工科大学)も同様の懸念を表明している。
これに対し、現在の財務長官であるイエレン氏は、インフレは仮に起きても利上げで対処できるが、経済は回復が遅れると大きな傷跡が残る、として大規模な財政出動の必要性を強調している。
米議会予算局(CBO)によれば、2021~24年の需給ギャップは、名目GDP換算で累計8600億ドルと推計されている。つまり1.9兆ドルという財政支出は、向こう4年間の需要不足額を2倍以上も上回る規模なのである。最終的に成立する予算は1.9兆ドルより小さくなる可能性もあるが、それでも需給ギャップに比べて圧倒的に大きいという関係は変わらない。
この状況を伝統的な経済理論で考えれば、相当強いインフレ圧力が発生するというサマーズ氏の主張が断然正しいように思える。
しかし論点は、近年のマクロ経済を伝統的な理論で考えてよいのかどうかにある。
かつてイエレン氏も議長を務めた米連邦準備制度理事会(FRB)が、ここ数年悪戦苦闘してきたのは、「近年の物価の動きは伝統的な理論では説明できない」という問題であった。今回の大規模な財政支出についても、次の3点を考えると、持続的なインフレをもたらす可能性はかなり低いのではないだろうか。
第一に、「経済が好調なら物価が上がる」というかつて当然と考えられていた関係が、近年は希薄になっている。
経済学的には「フィリップス曲線のフラット化」と呼ばれる現象である。実際、コロナ前の米国経済では、失業率が半世紀ぶりの水準まで低下していたにもかかわらず、インフレは政策目標の2%にすら達していなかった。
第二に、「需給ギャップ」は理論的には便利な概念だが、その具体的な推計は意外に難しく、かなり大きな不確実性を伴う。
第三に、1.9兆ドルという財政支出のうち、実際にどの程度が需要増につながるのかについても不確実性が大きい。
とくに今回の財政支出は、その多くが給付金などの所得支援であるため、それが支出に回るかどうかは家計の消費意欲による。財政支援によって可処分所得が増加しても、家計はそれが恒常的な賃金上昇とは異なり一時的なものであるとわかっている。消費は増加するにしても、インフレを強く押し上げるほどの需要増とはならない可能性が高い。
このように、景気が良くても物価は上がりにくいという近年のトラックレコードや、今後の家計行動を巡る不確実性などを考慮すれば、インフレを心配するより経済の回復を確実なものにする方が優先だ、というイエレン氏の主張には十分な説得性があるように思う。
それでもやはり、米国でかつてないほどの財政支出が行われようとしている事実には注目すべきである。
そもそも今回の1.9兆ドルだけでなく、トランプ政権の間に既に何度も大規模なコロナ対策が打たれている。さらにバイデン政権は、インフラ投資等からなる2兆ドルの財政支出を別途計画している。そして金融政策においても、2%インフレが定着するまでゼロ金利を維持する、というきわめて強力な緩和が継続されている。
今の米国は未曽有のマクロ経済政策の実験場となっている状態であり、どのような結果が出てもその含意は大きい。サマーズやブランシャールのような著名な経済学者が必ずインフレになると言うほど拡張的な政策が採られているのだから、もしそれでインフレにならなかった場合は、従来の経済学の常識は完全に否定されることになる。
それは先進国でインフレが上がりにくい理由を改めて深く問い直すきっかけとなり、場合によっては2%物価目標の是非にも議論が及ぶだろう。それは経済学の進歩という観点からは、むしろ望ましい展開だと筆者は考える。
一方で米国のインフレ率は、2%物価目標を下回ってきたとはいえ未達の度合いはわずかであり、箸にも棒にもかからない日本とはもともと状況が異なる。
何らかの理由でインフレ圧力が少しでも強まれば、2%程度のインフレが定着する可能性は相応にある。その場合は、その本当の理由が何であったとしても、強力な財政政策や金融政策の成果だと評価されることになるのだろう。
「本気で強力な財政政策や金融政策を行えば、インフレは必ず上がるのであり、2%物価目標も適切な目標である」という世界観が正しかったということに、少なくとも形の上ではなってしまうのだ。
これは日本にとっては不幸なシナリオである。
「日本で2%物価目標が達成できないのは、2%物価目標に無理があるからではなく、金融政策、財政政策のいずれかまたは双方に問題があるからだ」という誤った議論が勢いづいてしまいかねないからだ。
サマーズもブランシャールも尊敬すべき経済学者であるが、今回ばかりは彼らが間違っていることを期待したい。
サマーズ対イエレンのインフレ論争 イエレンに軍配か |
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【門間前日銀理事の経済診断(40)】1.9兆ドル財政支出はどデカいが消費に結びつかない可能性
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(マーケット)
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門間 一夫( みずほリサーチ&テクノロジーズ エグゼクティブエコノミスト)
1957年生。1981年東大経卒、日銀入行。調査統計局経済調査課長、調査統計局長、企画局長を経て、2012年から理事。2016年6月からみずほ総合研究所(現みずほリサーチ&テクノロジーズ)エグゼクティブ・エコノミスト。
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