自分で日記を書かないので、日記を書く人の気持ちがよく分からない。日々、自らの行動を振り返る自省的な人なのか。誰かに自分の成し遂げたことを知らしめたい自己顕示欲の強い人なのか。単なる記録魔なのか。ただ言えるのは、身辺の雑事をこまめに記した記録が、100年もすると貴重な歴史の証言になることだ。
中でも「日記の達人」と言われる人たちの記録からは、その時代の人々の息遣いが聞こえてくる。まずは、賄賂で蓄財を殖やし、浮気や芝居に浮き身をやつしながら、仕立て屋の息子から海軍省の事務次官にまで上り詰めた男、17世紀は英国のサミュエル・ピープス(1633~1703)の日記をのぞいてみよう。
私の自宅の狭い書斎では、厄介物の扱いを受ける書物の代表が『サミュエル・ピープスの日記』(国文社)全10巻だ。1660年から69年まで、1年分の日記が1巻ごとに収められ、10冊分の厚さは31㎝にも及ぶ。しかし、ひとたび読み始めると、やめられなくなってしまう奇書ともいえる本なのだ。
解読されてしまった秘密
というのも、賄賂を受け取るときの具体的な描写や、多くの女性との性関係などが赤裸々に描かれている。ここまで書いちゃって大丈夫なのか、こちらが心配になってしまうほどの率直な記述が次から次へと登場するのである。
実は、この日記の筆者は、速記号を暗号のように使い、だれにも、特に妻には解読できないようにしていた。ところが、この日記は本人の死後、蔵書とともに母校のケンブリッジ大学の学寮に寄贈され、100年もの間、書架の片隅で眠っていた。19世紀になり、彼の友人の日記が出版されて反響を呼んだことから、ピープスの日記にも注目が集まり、あっさり解読され、出版されてしまった。
ただし1828年に出版されたときは、時代的な背景もあり、性生活の描写などは公開されず、抄訳の形で一般の人の目に触れた。無削除版が出たのは、1970年から76年にかけて。日本語訳の第1巻が出たのが87年。途中、訳者の臼田昭さんが亡くなってしまったことなどにより。第10巻が出版されたのは2012年にまでずれ込んだ。
賄賂の額も書き込む
ロンドンの仕立て屋の家にうまれたピープスは、奨学金を得て、名門ケンブリッジ大学を卒業。就職先がなく、遠縁のエドワード・モンタギュー家の会計管理を手伝う家令や、大蔵省の役人の私設秘書になって収入を得る。社会人になって2年目、15歳のフランス娘、エリザベスと結婚する。
運がよかったのは、エドワード・モンターギュという人物が、機を見るに敏な貴族だったことだ。ピューリタン革命で一躍、躍り出たクロムウェルの右腕と言われていたのに、クロムウェルの死後、王政復古の兆しを感じ取るや、政権から離れて、田舎に隠遁。オランダに亡命していた皇太子、チャールズ2世と密かに連絡を取り合う。1660年、王政が復活すると、モンターギュは海軍司令官に就任。ピープスには、いきなり海軍司令官秘書のポストが転がり込み、さらに海軍省書記官に抜擢される。
ピープスの日記は、そんな出世街道のスタート時点にあたる60年の1月1日から始まる。賄賂が入りやすい書記官に就くと、お金と女、それに芝居に人生の重点を置く主人公は、その赤裸々な体験を包み隠さず綴る。例えば賄賂の額や、それに伴い殖える預金残高を克明に記録してニンマリする。
不思議なのは、そんな男が英国海軍省で、事務官のトップ、事務次官にまで上り詰めてしまったことだ。次回以降、日記の具体的な内容を紹介しながら、ピープスという妙な官僚の人生を追いかけてみよう。
<参考文献>『サミュエル・ピープスの日記』第1~7巻(臼田昭訳、国文社)、同第8巻(臼田昭、岡照雄、海保眞夫訳、国文社)同9巻(岡照雄、海保眞夫訳、国文社)、同10巻(海保眞夫訳)、臼田昭著『ピープス氏の秘められた日記』(岩波新書)、岡照雄著『官僚ピープス氏の生活と意見』(みすず書房)
仕立て屋の息子から海軍次官まで上り詰めた男 |
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足立 則夫(ジャーナリスト 元日本経済新聞編集委員)
1947年東京都青梅市生まれ。1971年早稲田大学政治経済学部卒業。日本経済新聞社に入社、社会部、流通経済部、婦人家庭部の記者、日経ウーマン編集長、生活家庭部長、ウイークエンド編集部編集委員などを経て,2006年生活情報部特別編集委員。2011年10月末,日本経済新聞社を退職。現在はフリーのジャーナリストとして雑誌のコラムを執筆しながら、週に1度,川村学園女子大学の非常勤講師として教壇に立つ。
著書に『ナメクジの言い分』(岩波科学ライブラリー)『遅咲きのひと』(日本経済新聞社)『やっと中年になったから』(日経ビジネス人文庫)、共著に『絆の風土記』(日本経済出版社)『ルポ日本の縮図に住んでみる』(同)など |
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