菅義偉首相が3日、コロナ対策に専念したいとして自民党総裁選への不出馬を表明した。「コロナ対策専念」は誰が見ても取って付けた理由で、勝てる見込みがなくなって万策尽きたための辞任表明だ。
菅政権が発足した当初、安倍晋三首相を7年8カ月支えた実力官房長官としての実績から「菅内閣の急所は菅官房長官がいないことだ」とまで言われた。だが政権の末路が示したのは「官房長官型総理」の限界だった。
菅氏が官房長官として評価された最大の要因は、安倍首相が打ち出すアベノミクスや安保法制など急進的な政策への批判を巧みにさばく危機管理力だった。異を唱えようとする官僚を人事で抑え込み、記者の選別や裏懇談での情報操作でメディアを牛耳った。しかし、それは所詮閉じられた世界の中での管理能力に過ぎなかった。
官房長官という仕事は創造性をあまり問われない。首相が提示した構想や政策をうまく具現化させる環境づくりが主たる役割だからだ。官房長官ならそれでいい。だが現代の宰相が求められるのは新しい社会をつくっていく創造性と、それを的確に表現する言葉である。
コロナ禍は人類にとって未知の試練だ。既存の制度や法律が想定していない事態にどう対応するか。前例を突破して新たな価値やあるべき姿を提示する創造性が問われる。ドイツのメルケル首相やニュージーランドのアーダーン首相は、国民の行動制限を強いる厳しい政策を示しながらコロナ禍での社会の在り方を必死に説いた。
対照的に菅氏のコロナ対策はワクチン頼みの一本足打法。国家的危機時に求められるトップの哲学は語られず、GoToキャンペーンや東京五輪を強行した。支持率急降下の原因はまさにコロナ禍への向き合い方だったわけだが、その菅氏が「コロナ対策専念」を口実に辞するのはブラックジョーク以外の何ものでもない。
わずか1年前の政権発足時、私たちはこの政権に6割もの支持を与えていたことを忘れてはいけないと思う。当時、菅氏が打ち出した一番の公約は携帯電話料金の引き下げという、悲しくなるほど小粒なポピュリズム政策。
そして行政を担う政治家が言うべきことかとの指摘があった「自助、共助、公助」。鉄壁とされた官房長官時代の記者との応答も「ご批判は当たらない」「まったく問題ない」の連発でしのいでいたのが実態だった。菅氏は喋りが苦手なのではなく、語るべき社会像を持ち合わせていなかったのではないか。私たちはもっと早くそのことを見抜くべきだった。
時代の変革期、政治には言葉があった。吉田茂は深夜に及ぶ国会で額に汗して講和条約と安保の意味を説いた。一般消費税導入構想を与党内からも批判された大平正芳は「アー、ウー」と葛藤を重ねながら将来世代の負担軽減を訴えた。新しい社会像、新しい秩序を探り出すには現状をどう変えていくかという創造性がカギを握る。
そして新しい社会の創造に情熱を持つトップにはそれを伝えようとする言葉があるはずだ。来るべき自民党総裁選では、磨きこまれた言葉を期待したい。