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自民脱党で新自由クラブ 街宣車の天井で刺されて

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【元木昌彦のメディアを考える旅】河野洋平元自民党総裁に聞く②

公開日: 2020/12/09 (政治)

撮影・桐島瞬 撮影・桐島瞬

元木 昌彦 (ジャーナリスト)

 新綱領草案が党内の右派たちによって潰された河野洋平さんは、自ら変わることができない自民党に幻滅を感じてしまう。

 1974年10月に発売された『文藝春秋』(11月号)は、立花隆さんの「田中金脈研究」を掲載した。これをきっかけに金権批判が巻き起こり、11月に田中角栄首相は退陣を発表する。

 1976年2月には「ロッキード事件」が起き、有権者の自民党政治への不信感はますます高まっていた。

 その年の6月、河野さんは志を同じくする議員たちを誘って離党する決心をする。

「新自由主義」を掲げた新自由クラブは、自民党に不満を持っていた有権者に熱狂的に迎えられ、ブームを巻き起こした。

 私はその頃に、河野さんと知り合うのだが、新党の行く手は平坦ではなかった。

(本文)

元木 1976年に自民党を離党します。衆議院議員の河野さん、田川誠一さん、西岡武夫さん、山口敏夫さん、小林正巳さん、参議院議員の有田一寿さんが6月25日に「保守政治の刷新」を掲げて新自由クラブを結成しますが、「命がけの離党」だったそうですね。

河野 そりゃそうです。

元木 具体的には?

河野 それはね、あの頃は共産党などはありましたが、大きな政党は自民党と社会党以外にはなかったんです。

それに55年体制だから、社会党が政権を取るなんて考えられなかった。だから、当時、永久与党といわれた自民党から離党するということは、政治的には自殺行為なわけです。

「お前、飛び出してどこへ行くんだ、まさか社会党に行くんじゃないだろうな」といわれました。

「いや、私は新党をつくって自民党と戦うんだ」と答えるんだけど、周りは、「何をバカなこといってるんだ」という話だ。

やってみると確かに選挙が大変なんですよ。選挙資金がないんだから全然。それに、自分たちで企業献金を廃止すると主張しているわけだからね。

今は政党助成金があるから小さな政党でも1億ぐらいの助成金がありますけど、あの頃は全くゼロだからね。

元木 個人献金に頼るしかないわけですからね。

河野 個人献金で1億集めるのは大変。募金箱を持って募金活動なんかやっても、1000円入れてくれるのはいいほうだからね。それでも1回目は相当集まりましたよ。

元木 3億円ぐらい集まったそうですね。

河野 そう。だけど2回目以降は全然集まらない。だから、それぞれみんなが借金してお金をつくったんだ。

自民党にいるときのように大企業や業界団体の金でやっているのとは違って、どうにもならないわけです。だから、離党は政治的な自殺行為だといわれたんです。

それと身体的な不安もあったね。京都市役所前で演説していたとき、暴漢が選挙カーに上ってきて刺されそうになってね。結構危なかった。

あの頃は多くのメディアが応援してくれていたから、例えば、週刊誌に新自由クラブは来週、京都で演説をやると書いてくれていたんです。

元木 私がいた週刊現代でも、先輩編集者が新自由クラブ事務所の電話番をやっていましたからね(笑)。それだけ期待が大きかったんですが、河野さんがどこで演説するかが分かってしまう。

河野 そう。嘘みたいな話だけどね。危ないから毎日、腹にさらしを捲いていたけど、あせもができちゃってね(笑)。だけど自衛する以外にないから。

元木 SPはつかない?

河野 警視庁はつけますといってきてくれたけど、権力側には守ってもらわない、いらないと断ったんです。

それでも警察は危ないと思っていて、この日も人混みに紛れて見張っていてくれたんです。暴漢が上がってきたとき、人相の悪い屈強な連中が2、3人上がってきて、取り押さえてくれたんです。

こっちは誰だかわからないから、「そいつをもっていかれたら困る」というと、警察だというんだ(笑)。

これが刺されたときの写真(当時の新聞に載ったものを私に見せる)。危なかった。

元木 何で河野さんを刺そうと思ったんでしょうか。

河野 自民党を離党したからでしょうね。

これがあったものだから、警察も河野さんは危ないから警護をつけさせてくださいといわれて、それではお願いしようとなって、これ以降は警備がつきました。

これは僕が40歳くらいのときで、それから政界を引退するまでかなりの期間SPがつくことになった。

元木 あの頃の河野さんは、今の小泉進次郎さんより人気がありましたからね。

あの当時出された新自由クラブが何を目指すのかをまとめた『拍手はいらない』(PHP)の中に、「婦人の地位をもっと高く」として、「女性の美的感覚、繊細な神経ややわらかいセンス、そして地域に密着した日常的なもののとらえ方など、政治や社会活動などすべての面で欠かせない要素です」と、女性をもっと起用して活躍させなくてはいけないと書いています。

当時としてはなかなか先進的だと思いますが。

河野 まあ、当時は苦し紛れの部分もありますね(苦笑)。男性の多くは自民党を応援しますから、若者とか女性に声をかけるほかないとなって、それで女性重視といったんです。

元木 女性の候補者もだいぶ増やしましたね。

河野 そうです。県会議員や地方議員には女性を立てましたからね。国会議員にも候補者を立てたけれど、通らなかった。

いい人がたくさんいたんだけど、やってくれなかった。だからそのとき、つくづく女性の政治参加は難しいなと思いましたね。

元木 それは今もあまり変わってないですね。

河野 そうですよ。だから、上の人は簡単に「女性活躍社会」なんていうけれど、社会構造はあまり変わってないから、女性が政治に参画するのは、今もやはり難しいね。

それから15年後くらいに、宮澤喜一内閣で僕は官房長官をやるんだが、初代の婦人問題担当大臣(現在の「男女共同参画担当相」)も兼任させられたんです。

宮澤さんに呼ばれて、「女性の社会への参加を求める政策を柱の一つにする。ついては、女性担当大臣を新たに置くから、君がやれ」といわれた。

僕は「ちょっと待ってください。内閣には森山眞弓さんという文部大臣がおられるから、森山さんにお願いされたらどうですか」と固辞したんです。

そしたら宮澤さんに怒られて、

「君、そういうことをいうからダメなんだ。女性の問題は女性がやればいいという発想が大体間違っている。官房長官のポストはそういうポストだから、君がやれ」

と。それで僕は「はい」といって、やりましたよ。

元木 新自由クラブは設立当初は大変なブームを巻き起こして、12月に行われた衆院選では一挙に18人を当選させ、一気に党勢を伸ばしました。

ですが、その後はじり貧といっては失礼ですが、党勢が衰え、10年で役割を終え、河野さんたちは自民党へ復党します。

私は、当時の新自由クラブを見ていて、お金の問題もあったけど、やはり、党内での路線論争で対立したことが大きかったと思います。

幹事長だった西岡さんの離党が、内外に与えた影響は大きかったと思います。

河野 そうだね、あれはどっちが悪かったとはいえない。彼はもう亡くなったし、僕も政界を辞めたときに振り返ってみて、僕のほうが間違っていたかなと思うときもある。

あのとき西岡さんは「自民党基盤政党論」を唱えたんだ。

日本の政治を担えるのは自民党しかいない。我々がやったのは、寝ぼけていた自民党を叩き起こす、目を覚まさせるためだったので、自民党ももう目が覚めたから、戻ってもいいじゃないかというものだった。

でも、僕はそうじゃない、もう一つの保守政党をつくることが我々の目的だから、絶対自民党には戻らないと、毎晩やり合った。今考えると馬鹿みたいに真面目にやったんだ。

それから5年ほど経って、僕も自民党に戻った。そしたら西岡さんが自民党を出ちゃった。彼は新進党に行ってしまったから基盤政党論と二党論が入れ替わってしまったんだ(笑)。

そんなこともあってね、まあ、どっちの主張が正しかったのか。今でも保守二党論というのはいいと思っているけど、現実問題としてはなかなか難しい。

西岡さんはかなり早くから「このままじゃだめだ」いうことを察知して、戻って党内改革をやろうとしていたんだ。

元木 西岡さんの記者会見に私も出ましたけど、あれは良くも悪くもインパクトがありました。

河野 やっぱり僕にも焦りがあったと思う。西岡さんが出ていく、18人いたのに、次に選挙をやったら、いっぺんに4人になってしまった。

4人じゃどうすることもできないということで、大福戦争(大平正芳氏と福田赳夫氏)があった首班指名選挙では大平正芳さんを支持した。

だけど、選挙で自民党を徹底的に批判しておいて、舌の根の乾かないうちに今度は大平支持に行ったから、支持者からはついていけないとられてね。

そいうことがあって、僕は代表を辞任して田川誠一さんが代表に就任した。

田川って人は偉い人だったね。落ち着いていて、しっかりしてて。田川さんに代わって党は復調するわけです。

半年後にまた解散になって12人に戻ったんです。それには背景がいろいろあって、僕らが離党して新自由クラブを作ろうという政治的背景には、共産党がものすごく増えてきたということがあった。

次の選挙ではもしかしたら共産党は倍増するんじゃないかといわれていた。自民党が全然ダメだったからね。

元木 1974年の総選挙で共産党は10議席から18議席に躍進しました。

河野 このままいくと自民党を離れた票が、社会党を飛び越して共産党に行っちゃいそうだ。だから自民党はダメだという票の受け皿を作って、共産党へ行かないようにしないといけない。   

そこに新自由クラブができて、その票を取ったんですよ。

だけど、共産党は全国組織があるし、あの頃の共産党は赤旗が売れてるからお金はあるから、そこと戦うのは大変だった。

こっちは金もないのに衆議院の候補者を25人立てるわけです。25人出さないと党としての資格がないから。資格ができると、ビラが配れるとか宣伝カーがいろいろ使えるとかメリットがあるから、とにかく案山子でもいいから立てるわけ(笑)。

だけど供託金を出さなければいけない。全部借金でしたから大変だったね。

元木 やっぱり、挫折した一番の理由はお金の問題でしょうか。

河野 全ての原因とはいわないが、大きな原因の一つが資金の問題であることは間違いない。10年間で8回選挙をやったのかな。衆議院選、参議院選やって、統一地方選もやるから、ほとんど毎年選挙ですよ。

だから返そうと思っても、返すまでにまた借金ができちゃう(笑)。

それと、仲間が何人も死んだんですよね。非常に優秀な人たちでしたが、僕が無理してやってるとみんな殺しちゃうんじゃないかと、一時期は本当にそう思ったことがありましたね。

元木 10年間苦労して、教訓になったことは何ですか。

河野 最大の反省は、候補者を選んで立てるということがなかなかできなかったことと、資金の手当てをどうするかという計画性がなかったことだね。

田川さんや有田さんに、「河野さん、数じゃないよ」と滾々といわれた。

そうはいっても25人立てないと政党として認められないから、無理して25人を立てたけど、なかなか実らなかった。

でも、トータルで考えれば僕はよかったと思ってますよ。僕の政治人生は失敗も多かったけど、失敗してきたから今生きているので、もし成功してたら死んでたと思う。

復党のときが一番きつかった。あの頃、自民党から復党の要請というか、脅しみたいなのがたくさんきてね。野垂れ死にするぞとか、これ以上バカなことをしてたら日干しにするぞとか、いろんなこといわれた。

それも一切断ってたんだけど、唯一、浅利慶太、牛尾治朗(ウシオ電機株式会社の設立者)の二人に呼ばれたのには参ったな。

「どうなんだ」っていわれたけど、私には「離党しよう」と誘って出て来た人がいるから、その人たちへの責任があるから、返事ができないんだ。

最終的に浅利さんと田川さんがものすごい突っ込んだ話をして、田川さんが俺に「もう帰れ」というんです。

田川さんにいわれたらしょうがないなと思ったけど、田川さんは「俺は帰らない」というわけ。そりゃないだろうと思ったよ。

「君らは帰ったあと、自民党の連中にいじめられるだろうから、連中をかばってやれ。俺はここに残って、地方組織の面倒を見る」と。

田川さんとは二晩くらい徹夜で話して、それ以外に2人とも生き延びる道はないという結論になったんです。

それで復党することにしたんだけど、今度は自民党の中でギャーギャー批判されてね。それで浅利さんも怒ってしまって、「河野さん、この話はご破算にしよう」といい出した。

浅利さんは中曽根(康弘総理・当時)さんのところへ行って、談判して、中曽根さんがお詫びの電話かけるからという話があってね。まあ色々あったね。

(次回③に続く)
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元木 昌彦(ジャーナリスト)
早大商卒、1970年講談社。90年FRIDAY編集長、92-97年週刊現代編集長として創刊以来最大部数に。『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』(2020年4月現代書館)など多数。
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