▽ジョンソン次官の凱歌
日本への沖縄返還をうたった1969年11月21日の日米共同声明が発表された直後、交渉を最前線で取り仕切った米国務次官のアレクシス・ジョンソンは米国記者のみを招いたブリーフィング(背景説明)を行っている。ジョンソンは凱歌を誇るようにこう切り出した。
「本日の日米共同声明第3項で、日本政府は初めて日本の安全と極東の安全の関係に言及した」。そして在日米軍基地から朝鮮半島や台湾への有事自由出撃を事実上容認した第4項についても「初めてのことだ」と強調した。それは米政権が沖縄返還という外交交渉の中で得た最大の果実だった。
ジョンソンは生え抜きの外交官である。前職は駐日大使(1966~69)。大使赴任時から彼は経済力を高めた日本がアジア極東での安全保障を米国と役割分担すべきだという持論を掲げていた。日本が正式に沖縄返還を求めた際には周囲に「天の恵み」とさえ話し、持論実現の機会をうかがっていた。しかし、日本側はその意図にまったく気付いていなかった。
象徴的な逸話がある。1967年7月15日、当時駐日大使だったジョンソンはホテル・ニューオータニで外相の三木武夫と向き合った。返還交渉が始まったばかりの頃だ。単に領土交渉と考えていた三木は「米側が求める返還の条件とは何か」と問い掛けた。するとジョンソンは「問題は米国が何を求めるかではなく、日本が何をするかだ」と諫め、アジアでの日本の役割をどう考えるのかを問うた。三木はしどろもどろになって、ただ米国の条件は何かと繰り返すだけで、会談は噛み合わないまま終わった。
米側は交渉の当初から、日本が主体的にアジアの安全保障に関与することを沖縄返還の“代償”と考えていた。その背景には、ベトナム戦費の急拡大で悪化した米国の国際収支と、GNP世界2位にまで上り詰めた日本の経済成長があった。
米政権が求めたのは、返還後の沖縄の基地からの朝鮮半島、台湾海峡などへの自由出撃。60年の安保改定と同時に結ばれた関連文書で米軍が有事出撃する際には日本との事前協議が必要となっていたが、米側はこの制約の解除を画策したのだ。
そしてもう一つの目標は、自衛隊と米軍の連携を進め、米国が独り担ってきたアジア極東の安全保障に日本がより積極的な役割を果たすこと。しかし外務省や首相の佐藤栄作の頭の中には、安保条約の期限が切れる1970年6月までの返還合意と、国内世論が関心を寄せる沖縄からの「核抜き」しかなかった。
▽「核」をおとりに陽動作戦
米政権は沖縄返還の“代償”を得るために巧みな作戦を講じている。一つは「核」をおとりにした陽動作戦だ。交渉半ばで政権を担ったニクソン大統領と補佐官のキッシンジャーは、1969年5月の時点にすでに沖縄からの核撤去を決めていた。核搭載型潜水艦など輸送技術が発達し、もはや沖縄に核を置くメリットが薄れたためだ。だが米側はこの政策決定を交渉最終盤まで秘匿する。

米国家安全保障委員会が沖縄返還の対日方針を定めたNSDM13号
もう一つは佐藤の密使外交を逆手にとった戦術。外務省―国務省の交渉で「核抜き」の進展がみられない中、佐藤は69年半ばから米政権内に広い人脈を持つ若泉敬を再び密使として派遣する。若泉はニクソン政権で国家安全保障会議のスタッフとなっていた旧知のモートン・ハルペリンと接触するが、この時ハルペリンは「このチャネルを使えば(交渉の)イニシャティブが取れる」とキッシンジャーに進言している。これを受けてキッシンジャーは外務省―国務省の正規ルートを無視し、裏交渉で若泉にさまざまな要求を吹っかけていった。
「核抜き」の言質をとることを至上命題としていた若泉は、朝鮮半島、台湾海峡への在沖縄米軍の自由出撃、有事での核再持ち込みについての密約など次々に米国の要求に応じていくことになる。そしてその完成形が69年11月の日米共同声明だった。
▽ひそかに組み込まれた安全保障政策の大転換
共同声明には朝鮮半島、台湾海峡への有事出撃について「日本自身の安全にとって緊要である」などと、日本側が積極的に容認していく姿勢がにじんでいる。そして日本が「極東の平和と安全」の重要性を「認識」し、その関与を強めるとの意向が第2~7項で繰り返し強調されている。いずれも日本の防衛政策を大きく転換させる内容だ。だが当時の新聞は核問題に集中していたためか、この点についてほとんど触れていない。

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事実、米側はこれを起点に自衛隊との軍事協力を活発化させ、日本は思いやり予算、ガイドライン、周辺事態法、安保法制と米側の求めに従う形で同盟を深化させていくことになる。2021年5月の菅義偉首相とバイデン大統領による共同声明で言及された日米の「台湾海峡の平和と安定」への関与も、根拠は半世紀前のこの共同声明だ。
国の安全保障政策は本来、政府が衆知を結集して議論を重ね踏み固めていくものだ。それが沖縄返還というビッグイベントの裏で密使によって核抜きの取引材料のように取り扱われていた事実は、当時の交渉に潜む深い闇を映している。