新型コロナウイルスの感染拡大の下で迎えた憲法記念日(5月3日)、ウイルス対策で「緊急事態宣言」が出されている折から、憲法に「緊急事態条項」を設けるかが焦点に浮上し、大手紙もこれを中心に論じている。安倍晋三首相は同条項の必要を力説するが、安倍政権は新型コロナへの対応に手一杯の状況で、訴えは迫力を欠く。
緊急事態条項は、戦争や大災害といった非常時に内閣に権限を集中する手段。具体的に大災害などの際に、内閣は国会での審議を経ることなく法律と同じ効力を持つ政令を出すことが可能になる。明治憲法には天皇の名で発する緊急勅令などがあった。いずれにせよ、憲法の秩序を一時的に止める「劇薬」だ。ナチス・ドイツが緊急事態の大統領令を駆使して全権委任法を手にして独裁体制を築いたことも知られている。
自民党は2018年3月、9条への自衛隊の存在明記、緊急事態条項新設など4項目の改憲案(条文イメージ)を示し、中では自衛隊明記を第1に目指してきたが、「今回の新型コロナを機に緊急事態条項の議論優先に方針転換した」(大手紙政治部編集委員)とされる。
新型コロナと憲法をめぐる経緯を振り返ると、政府の対策本部が設置された1月下旬に、自民党の伊吹文明元衆院議長が「憲法改正の大きな実験台と考えた方がいい」と緊急事態条項に言及したが、当時はまだ感染がさほど広がっておらず、現在の緊急事態宣言のような強力な対応は、むしろ過剰反応との批判を招きかねないとの声が政府・与党にも強く、まして憲法に同条項を創設する議論を本気でやろうという空気ではなかった。それが、ここにきて同条項が注目されるようになったのは、新型コロナがそれだけ深刻になったということではある。
改憲派が同条項の必要を訴える一方、護憲派は現行憲法の枠内で必要な立法をすればいい、少なくとも慌てて議論する必要はないと主張する。
新型コロナに絡めて同条項が必要ということは、論理的には現行憲法では十分な対処できないという意味になる。この視点から、改憲派の主張を見てみよう。
5月3日に改憲派がネット中継で開いた集会に安倍晋三首相が寄せたビデオメッセージは、「感染拡大防止に向けて、国民の皆さまには……多大なるご協力をお願いしています。また、国家の機能維持という点でみれば、国会審議の在り方についても、与野党で協議し、さまざまな工夫がなされてきたところです。しかしながら、そもそも現行憲法においては、緊急時に対応する規定は、『参議院の緊急集会』しか存在していないのが実情です」と、非常時の国会議員の任期延長も含む緊急事態条項の必要を訴えた。
ただ、新型コロナへの対応に関して、現行憲法の制約で何ができないのかといった具体的な言及はなかった。
この集会の声明は「(緊急事態宣言で)対象都府県の知事は外出の自粛やイベントの開催中止を『要請』したが、わが国の場合、強制力はなく、罰則もないために、効果は限定的にならざるを得ない」として、自粛要請では不十分と断じるが、どう「効果がない」のか、具体的な説明はない。
与党の一角を占める公明党は慎重だ。北側一雄副代表は読売5月3日朝刊紙上の座談会で、国会議員の任期延長については「国会の役割を果たすためには、議論の必要がある」としつつ、「憲法13条に『公共の福祉に反しない限り』と書かれているから、人権を制限するための緊急事態条項は必要ない」と明言。2017年の衆院憲法審査会でも同様の趣旨を公式に述べている。
改憲反対の意見も見ておこう。木村草太・都立大教授のコメント(毎日5月3日朝刊社会面)が分かりやすい。「現行憲法は、感染拡大防止に不可欠な外出・営業の制限を禁じていない。現在の感染症法・改正新型インフルエンザ等対策特別措置法で不十分なら、強力な補償・罰則等を伴う新型コロナの特性を踏まえた新たな特措法を作ればよい」と明快に指摘。
この間の政府の対応を巡っても、「首相が半ば独裁的に行った2月末の全国一律休校要請は、感染未確認地域までも休校とする点で過剰な一方、感染拡大地域で学校以外の事業が継続する点で過小だった。非常事態下で、首相に独裁権を与えても適切な対応にならないことの実証例だろう」と分析している。
多くの野党は「緊急事態のもとでは、『公共の福祉』による(人権の)制約がより大きくなることも当然のこととされている。憲法の制約で、やるべきことができないということはまったくない」(枝野幸男・立憲民主党代表)など、緊急事態条項は不要との立場だ。
大手紙は憲法に関する世論調査を実施し、憲法記念日を中心に紙面化している。緊急事態条項を設けるべきだとの意見について、産経・FNNの合同世論調査で賛成65.8%、反対23.4%。毎日新聞では賛成45%、反対14%、わからない34%。
朝日は賛成31%(憲法を改正して対応するべきだ)、反対65%(憲法を変えずに対応すればよい57%、そもそも必要ない8%)。読売も賛成31%(憲法を改正して条文に明記)、反対65%(憲法を改正せず新法を作る49%、今のままでよい16%)という結果で、質問の仕方や構成で差が出ている(産経については後で詳述)。
ただ、読売の「憲法でとくに関心を持っている問題」(複数回答)の質問に、同条項を挙げた人が1年前の22%から38%に急増しており、新型コロナで関心が高まっているのは間違いない。
大手紙は3日、一斉に恒例の「憲法社説」を掲載した。緊急事態条項が最大のテーマになり、当然ながら各紙の基本スタンスを反映して論調は割れている。
朝日、毎日、東京の「護憲」3紙は現行憲法の下での法律で対処可能だとし、同条項を今持ち出すことに批判的だ。
朝日は、新型コロナ対策の取り組みを憲法に即して「検証」する形で論を進める。まず、「公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と国に義務づける憲法25条2項の求めにより、感染拡大防止の対策が実施されているとして、
〈日々の生活費などをぎりぎりまで切り詰めている人たちには、対策の一刻の遅れは死活的となりかねない〉〈外出自粛や休業、休校によって、22条や26条が保障する移動や営業の自由、教育を受ける権利などが制限されている〉
と、人権や財産権がある部分侵されていること、生活の保障では課題も大きいことを指摘する。
加えて、〈罰則を伴う強制的な命令によって外出などを禁じている欧米諸国とは異なり、日本ではあくまでも「要請」という国民へのお願いが基本だ。多くの国民は……自発的な意思によってこれを受け入れてきた。……一定の効果は上げている〉
と、現状を一定程度評価。改憲論について、
<憲法秩序を一時的に停止させる強力な権限を内閣に与えるまでもなく、25条2項をもとに新型インフルエンザ等対策特別措置法や感染症法などの法律がすでに整えられている。必要なのはそれらの法律に不備はないか、適切に運用できる体制は十分なのかを常に点検することだ〉
と、緊急事態条項は不要との立場だ。
毎日は〈今回、緊急事態宣言が出された後も予定した審議は行われ、国会の機能が損なわれるような状況にはなっていない〉
と、国会の機能停止などを想定する緊急事態条項に疑問符を付けたうえで、
〈現行憲法は、軍部の暴走と国民の思想統制を許した明治憲法への反省から、国家に大きな強制力を与えることに慎重な仕組みになっている。……緊急事態条項は一歩間違えれば、基本的人権の尊重など憲法の大事な原則を毀損(きそん)する「劇薬」にもなる〉と指摘。
〈いまはコロナの特別措置法に基づき、対策を尽くすときだ。その上で、現行法に不備があれば修正し、法令では対応できない場合に改憲論議に進むのが筋である〉と、拙速を戒めている。
東京は、憲法54条の「国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる」との規定を示し、
〈コロナ禍を利用した改憲論はナンセンスと考えます。不安な国民心理に付け込み、改憲まで持っていこうとするのは不見識です〉と批判。
また、なぜ憲法に同条項がないのかと問いかけ、制定を論議した1946年7月の帝国議会で、金森徳次郎憲法担当相が「言葉を非常ということに借りて、(緊急事態の)道を残しておくと、どんなに精緻な憲法を定めても、口実をそこに入れて、また破壊される恐れが絶無とは断言しがたい」などと答弁したことを引用し、
〈権力がいう「非常時」とは口実なのだ――74年前の金森の“金言”を忘れてはなりません〉とくぎを刺している。
日経は、従来から、憲法は不断の見直しが欠かせないが、憲法改正そのものが目的であるかのような改憲論とノーという「論憲」といえる立場で、護憲、改憲の中間に位置するが、今回の緊急事態条項の議論には、
〈(改憲派は)コロナ危機のいまならば、有権者の理解を得やすいとみているようだ〉と分析したうえで、
〈有事対応を検討しておくことは有意義……ただ、その際に大事なのは、対象や手順を具体的に想定して議論することだ。……「ムード改憲」的な手法は好ましくない〉と、批判的だ。
改憲が社論の読売と産経は、新型コロナに絡めて緊急事態条項の論議を進めようと訴える。
読売は、〈憲法が危機管理規定を欠くのは、政治の不作為と言わざるを得ない〉と、従来からの同条項必要との主張を確認したうえで、〈憲法に基本原則を規定したうえで、法律で政府権限の内容や手続き、歯止めなどをあらかじめ明記しておくのは、法治国家として当然だろう〉と書く。また、〈緊急事態に国会の機能を維持する方策も、論点の一つだ〉と、非常時の議員任期延長などの必要も指摘し、憲法審査会での議論を訴えている。
産経も、〈危機を乗り越えられる憲法になっていないことを痛感する〉などと、読売とほぼ同じ論理展開で、同条項の導入の必要を訴え、〈首相は論議を主導せよ〉と、発破をかける。
〈平時の体制のまま、有事や内乱、大災害といった深刻な緊急事態を乗り切ろうとすると、かえって国民の被害が増し、事態の収拾が遅れることがある。このような場合には、一時的に政府に権限を集めて対応した方がうまくいく〉(産経)というのは、一般論としてその通りだろう。
ただ、〈想定外の危機に、政府は万全の態勢を有していたか。憲法をはじめ、日本の法律や諸制度は有効に機能したと言えるか。立ち止まって考える機会とすべきだ〉(読売)、〈特措法上の宣言は、多くの国が持つ憲法上の緊急事態宣言とは似て非なるものだ。政府の権限が弱すぎて思い切った政策を打ち出せない〉(産経)と書いても、現在の新型コロナに対して、どこが「政府の権限が弱すぎて」、どう「有効に機能」していないかという論証は見られない。
この間の安倍政権の取り組みには各社の世論調査でも批判が強く、内閣支持率も低下し続けて軒並み不支持多数に逆転しているが、安倍政権は、対応が不十分だと認めない。一方で、緊急事態条項については、現行憲法で十分な対策ができているというなら、必要性を論証できない。緊急事態条項必要論は、そういうジレンマを抱えている。
実は、このジレンマを見事に〝証明〟しているのが産経・FNNの世論調査だ。4月14日5面の「主な質問と回答」によると、先に書いたように、緊急事態条項に「賛成」は65.8%に達したが、その質問の前に、新型コロナについての10以上の問いがある。
主なところでは「政府の対応を支持するか」「緊急事態宣言を評価するか」「法改正してもロックダウン(都市封鎖)できるようにすべきだと思うか」「規制や旅行などを控えるべきだと思うか」「政府の経済対策を評価するか」「布製マスク2枚を評価するか」など、質問をこれでもかと重ねたうえで、「憲法に緊急事態条項を設けることに賛成か」と問うている。
この間の安倍政権の対応に関して批判的な回答が圧倒的に多い。意図したかは別にして、「新型コロナに対応できていないから」→「同条項に賛成」へと誘導するような質問構成といえるだろう。
この間の新型コロナ対応への批判を逆手に憲法論議を進めようというなら、捨て身の作戦だが、まさか、そこまでの覚悟はないだろう。
安倍首相は緊急事態宣言を延長した4日の記者会見で、特別措置法に関し、休業要請に従わない業者らを対象に罰則規定を設ける法改正について「当然検討されるべきだ」と語っており、「憲法の緊急事態条項を持ち出すのは、特措法改正の地ならしを狙った面もある」(大手紙政治部デスク)という辺りがプロの読み筋のようだ。