2022年1月初め、世界で初めて豚の心臓を人に移植する手術が行われ、術後は順調である旨の報道がありました。
私自身、大学の研究室いた40年程前は人工心臓の開発研究とともに、山羊を使った心臓移植の研究も行っていたので、このニュースには大きな関心を持ちました。
というのも、いわゆる異種移植と呼ばれる今回のような方法は、かなり以前に行われたものの失敗が続き、最近では顧みられなくなったと思われていたからです。もしこれがうまく行くようなら、臓器移植の様相は大きく転換します。
一方、異種動物の臓器を人の体の中に入れて良いのかという、生物学的、倫理的な問題もあります。
こうしたことから、今回の手術の詳細が知りたいと思っていましたが、これまで不思議なほど報道、発表が少ないのです。特に日本では、手術に成功したという当初の報道以後、殆ど取り上げてられていません。
海外の専門誌等はさすがにある程度、取材・論評を載せているので、これらをもとにこの問題の現状を考えてみたいと思います。(参考とした雑誌は、Nature、 Science、 Lancet、 Financial Timesなどです。)
現在も脳死臓器移植は進展していますが、最も進んでいる米国でも臓器提供は不足しており、待機患者の列は年々長くなっています。
そうしたことから異種移植への期待は大きく、実は何年にもわたり粘り強く研究が進められていて、特に最近では最も困難とされていた拒絶反応を回避するための、移植動物に対する遺伝子編集やクローニングが行われ、また新たな免疫抑制剤も開発されるなどの進歩も見られていました。
そうした中、動物実験(豚からヒヒへの移植)による検証も進められていたほか、提供された人の脳死体に豚の腎臓を移植する実験も行われ、腎機能が順調に発揮されることなどが確認されていました。
人の生体に移植するにあたっては、先ずその提供される臓器の安全性が確保されなくてはなりません。米国FDAは豚の無菌的な飼育、豚に特有な病的ウイルスの除去などを行わせ、その安全性を確保する準備をしていたようです。
これについてはRevivicor社というバイオベンチャーが豚飼育システムを作っており、開発者はこうして提供される臓器は人・人での移植に比べて、脳死の発生という偶然によらない提供の確実性はもとより、病原性のチェック等においてもはるかに優れていると言います。
心臓移植についても準備が進められていたようですが、今回のケースは57歳男性で、他に移植の適応がない末期の心不全ということで、緊急人道的承認となったとのことです。
移植については高額な医療費が常に問題になりますが、異種移植の臓器については無菌飼育や遺伝子操作等さぞ膨大な費用が掛かりそうです。しかし、関係者は、持続する人工透析や、臓器そのものは無償提供であっても、脳死からの臓器提供に伴う様々な費用、内科的な治療費などから見れば、異種移植が医療費の大幅な効率化になるのは間違いないとしています。
当面、今回行われた心臓、そして腎臓などが計画されていますが、さらに調整を要するものの、肺やすい臓なども移植できるようになる可能性がありそうです。
今回、豚に行われた遺伝子編集は、拒絶反応を回避するためのもの、豚に組み込まれたウイルス遺伝子の削除などの他に、(豚は数百キロまで成長してしまうものもあるようで)移植臓器が大きくなり過ぎないようするなど10カ所を改変したとされています。
現在術後約1ケ月が経過しましたが、今のところは順調なようで、今後の経過が期待されます。
一方、この手術の社会・倫理的な問題については、まず、異種動物の臓器を人体の中に入れることがありますが、実はすでに何十年も前から豚の心臓弁は加工して人に数多く移植されてきています。そして今回の患者さんは、以前に豚弁を移植されていたそうです。
また、動物愛護の観点では、近年の飼育や処理は苦痛を与えないような措置が十分なされているので、問題ないとしています。
今回のケースでは患者がヒーロー扱いをされている報道もあるようですが、移植された患者は30年程前に刺傷事件で禁固10年の刑を受けています。被害者は受傷による麻痺で車いす生活となり、その後亡くなっています。遺族は「患者は移植されるに相応しくない人間」と述べたそうですが、医療者側は過去は問題ではないとしているとのことです。
様々な課題を内包してはいますが、ともかく米国の医療技術開発に対する底知れないエネルギーを感じます。
iPS細胞などから移植臓器が作られ使われるようになるのはまだ大分先のようですから、今回の手術は、異種移植という新たな治療手段が、今後早々にも現実のものとなるきっかけとなるのかもしれません。
豚心臓移植が「成功」 末期患者に人道的な承認 |
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【医学者の眼】無菌飼育や遺伝子組み換えで安全性を確保
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中島 正治(医師、医学博士、元厚労省局長)
1951年生。76年東大医学部卒。外科診療、医用工学研究を経て、86年厚生省入省。医政局医事課長、大臣官房審議官(医政局、保険局)、健康局長で06年退官。同年、社会保険診療報酬支払基金理事、12年3月まで同特別医療顧問。診療、研究ばかりか行政の経験がある医師はめずらしい。
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