頼みの綱のコロナワクチンの接種が途上国並に遅れたままだ。5月19日現在、日本でワクチン接種を完了した人の割合は1.55%にとどまる。3.32%のインドネシア、2.28%のバングラデシュのよりも少ない(Our World in Dataより)。ロジスティクスの機能不全が接種の遅れを招いているのだが、もとをただせば海外メーカーからの調達に依存していることに原因がある。国産ワクチンを開発できていれば、話は違っていたはずだと誰もが思う。
5月18日、自民党の下村博文政調会長は、菅首相に面会して「国産ワクチンの実用化」への提言をした。国産ワクチンの担当大臣を置き、省庁横断で実用化に取り組むよう下村氏は求めたという。文部科学省に影響力を持つ下村氏は、研究開発の側面から国産化に「一枚かんでおきたい」のかもしれないが、いま、実用化を阻んでいる大きな壁は承認前の大規模治験(第3相試験)だ。
メッセンジャーRNA(mRNA)ワクチンを開発したファイザーは、有効性と安全性を最終確認するために約4万人規模の第3相試験を行っている。そのような大規模な治験が日本ではできそうにない。塩野義製薬や第一三共など数社は、少人数で安全性を確認する第1相、安全性に加えて用法・用量などを調べる第2相の臨床試験に進んでいるが、肝心かなめの第3相試験の前で立ち往生しているのだ。
これは厚生労働省と承認審査を行う医薬品医療機器総合機構の判断にかかっており、「省庁横断」の新大臣ポストの創設とはほとんど関係ない。逆に国産ワクチン担当大臣などを置けば、船頭多くして……よけいに混乱するばかりだろう。
では、なぜ、日本では大規模な第3相試験ができないのか。それは後発ならではの「倫理の壁」にぶつかっているからだ。通常の第3相試験では、未接種の人に対し、ワクチンをうつ集団と、生理食塩水などの「偽薬(プラセボ)」を打つ集団に分け、有効性、安全性を比較する。
ファイザーの国際共同第3相試験では、偽薬とワクチンをそれぞれ2万人以上に投与している。昨年12月に同社が発表した試験データでは、コロナ感染歴のなかった3万6523人のなかで発症したのは170人。そのうち8人がワクチンを打った集団、162人が偽薬の集団に属していたので、有効率は95%と算出されている。
問題は、偽薬を投与して多くの人を感染させることだ。緊急事態下で、ワクチンが世界に存在していなかったころは「公益」重視で偽薬試験も容認される。しかし、すでに米英独ロ中印の6か国でワクチンは完成し、世界中に出回っている。そのような状態で、重症化の懸念もある感染者を増やすのは許されない、という倫理の壁が立ちふさがっているのである。
この壁をいかにして突破するか。3つの方法が考えられる。まず、承認済みのワクチンと比較して「劣っていない」ことを示す「非劣性試験」。偽薬を使わなくて済む。厚労省は、この方法を検討しているが、ワクチン開発に詳しい医学者は、こう語る。
「先行するいいワクチンよりも悪くないですよ、と証明する非劣性試験は、他の薬でもやってはいます。しかし、ファイザーのワクチンの臨床試験データが非常にいいんです。国産ワクチンの開発者たちは、それよりいい結果を出せるかどうか怖がっている。経営者も負けを覚悟の臨床試験なんてやりたがりません。ハードルは高いですね」
2つ目は、中和抗体価(感染を阻もうとする抗体の量や強さ)を接種後に測って有効性を調べる方法だ。ただし、PMDA(医薬品医療機器総合機構)は「科学的知見が足りない」と慎重な姿勢を崩していない。
3番目が若い治験ボランティアを募り、制御された環境で感染実験を行う「ヒューマン・チャレンジ試験」である。英国ではすでに認められており、過去にも腸チフスやコレラの治療薬、ワクチンを開発するためにチャレンジ試験が行われた。
第3相試験よりも少人数の被験者で有効性や安全性を見極められる。が、万一、感染者が重症化した場合、腸チフスやコレラと違ってコロナは治療法が確立しておらず、懸念がつきまとう。安全性に神経をとがらせる厚労省やPMDAは及び腰だ。
現時点では、2番目の中和抗体試験ぐらいしか現実的な方法はなさそうだ。
こうした状況で、菅首相は、5月10日の衆議院予算委員会で「危機管理の対応として、より速やかに承認できるような承認制度の見直しを検討する必要がある」と表明した。第3相試験に代わる方法は明らかにしなかったが、早期承認に前向きだ。じつは、「条件付き早期承認制度」に首相は関心を示しているという。
これは、第2相の結果で承認し、承認後に実際にワクチンを使いながらデータを集めて有効性や安全性を再確認する方法。フライング気味に承認し、あと付けでデータをとる。中和抗体試験と組み合わせれば、やってやれないことはないのかもしれない。だが、第3相試験を省略すれば、世間の目は一層厳しくなる。いずれにしても有効性、安全性を証明しなくてはならないのだ。いいワクチンをつくるに限る。
現在、製薬メーカーグループに対して、生産体制整備のための補助金が交付されている。
塩野義+国立感染研/UMNファーマに223億円、第一三共+東大医科研に60.3億円、アンジェス+大阪大/タカラバイオに93.8億円、KMバイオロジクス+東大医科研/感染研/基盤研には60.9億円。このなかには「有効性、安全性」を証明できないのではないか、と噂されるプロジェクトも入っている。
プロセスもさることながら、結果がすべてだ。
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山岡淳一郎(作家)
1959年愛媛県生まれ。作家。「人と時代」「21世紀の公と私」をテーマに近現代史、政治、経済、医療など旺盛に執筆。時事番組の司会、コメンテーターも務める。著書は、『後藤新平 日本の羅針盤となった男』『田中角栄の資源戦争』(草思社)、『気骨 経営者 土光敏夫の闘い』(平凡社)、『逆境を越えて 宅急便の父 小倉昌男伝』(KADOKAWA)、『原発と権力』『長生きしても報われない社会 在宅医療・介護の真実』(ちくま新書)、『勝海舟 歴史を動かす交渉力』(草思社)、『木下サーカス四代記』(東洋経済新報社)、『生きのびるマンション <二つの老い>をこえて』(岩波新書)。2020年1月に『ゴッドドクター 徳田虎雄』(小学館文庫)刊行。『ドキュメント 感染症利権』(ちくま新書)、『コロナ戦記 医療現場と政治の700日』(岩波書店)刊行。
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