施設入所者の岡本ひとみさん(仮名85歳)は、隣に座っている利用者からお叱りを受けました。
岡本さんは難聴なのでその言葉は届いていません。
しかし、自分を非難する雰囲気を感じたのか、「なぜ私を責めるの。食事がまずくなるじゃないの」と、小さな声で呟かれていました。
このようなことが度重なっていたので、介護スタッフたちは岡本さんの独り言に悩んでいました。
悩んでいたのは独り言だけではありません。岡本さんは夜中に何度もお部屋から出て来てうろうろと歩き回るのです。
そして、「どうして私はここにいるの。理由を教えて」などと言って興奮されます。そうなると、介護スタッフが何を言っても心を閉ざして、受け入れてもらえませんでした。
そんな時「私は誰からも話しかけられないし、分かってももらえない。だから独り言を言わないとやっていられないのよ」。
介護スタッフは岡本さんの独り言を耳にしました。
岡本さんは独り言で自分の寂しさを癒そうとしていたのです。そのことに気付いた介護スタッフは、夕食後時間を見つけてお話する機会を持つことにしました。
「岡本さん、少しお話しませんか」。
介護スタッフがお声をかけると、たいてい顔をほころばせてにっこりされます。
「子どもの頃、身体が大きかったから母親にしっかりしていると思われて、あまりかまってもらえなかったのよ。でも本当は泣き虫で弱虫だったの」。
いつも昔の話をされますが、ところどころつながりません。でも、介護スタッフは辛抱強く話を傾聴しました。
その夜岡本さんはトイレ以外朝まで起きてくることはありませんでした。
認知症になって閉じていた理性の蓋が開いた途端、解決されていなかった感情が襲ってくることがあります。
岡本さんはお母さんに思いっきり甘えたかったのですが、その感情に目を背けて生きてきたのです。
だから、幼少期の満たされなかった思いを話せた夜は、安眠されたのかもしれません。
けれども、介護スタッフが忙しくてお話できなかった夜は、「自分が分からなくなるの。しっかりしようと思っても頭がつながらないのよ」などと訴えて、ベッドに入ろうとされません。
ところが、ある夜しっかり話を聞いたはずなのに、頻回に部屋から出て来るのです。介護スタッフは岡本さんが手でお腹を押さえていたので、「トイレですか」と尋ねると、頷いてトイレに行かれたそうです。
そのようすから寝る前に服用している便秘の薬の作用で便意をもよおし、寝付けなくなっているのかもしれないと、考えるようになりました。
そこで医師に相談して薬を朝食後に変更してもらいました。すると夜間起きる回数は目に見えて減ったのです。
それでも不安そうに部屋から出て来られる夜は、フロアーにあるソファーに座っていただき、時間が許す限り二人でおしゃべりをして過ごしました。
声が聞こえなくなったと思ったら、介護スタッフの肩に頭をのせて寝息をたてていらっしゃることもあったそうです。介護スタッフの肩の上でお母さんの夢を見ていたのでしょか。
その後岡本さんは夜間の不眠だけでなく独り言も軽減しました。
認知症の人は心や身体の状態を言葉にして表現することが難しくなっています。

尊厳ある介護(台湾版)
気付くための第一歩は、まず自分の心や身体を観察することから始まります。そうすると想像力が養われ、相手の心や身体の声が聴こえてくるようになるのです。
その声をキャッチして寄り添うと、認知症の人がドラスティックに変身することがあるのです。
(注1)事例は個人が特定されないよう倫理的配慮をしています。
(注2)このコラムをベースに出版された里村さんの著書『尊厳ある介護』(岩波書店)が翻訳され、2021年9月に台湾で出版されました。