「お隣さんが私のお部屋に来てうるさいと言われて困っているの」。
施設利用者の登芳美さん(仮名86歳)が泣いて事務所に来られました。
スタッフは興奮されている登さんの気持ちが収まるまでお話を聞いて、お部屋まで送りました。
翌日、登さんのことが気になったそのスタッフは、「その後お隣さんは何か言われましたか」とお聞きしたところ、「何のことかしら?」とすっかり昨日のできごとを忘れていたようすでした。
登さんはアルツハイマー型認知症です。お話はできますが、直ぐに忘れてしまいます。不安感が強く「頭がおかしくなった」と訴えられることが度々ありました。
そのため、スタッフは順番で登さんのお部屋を訪ねてお話を聞くようにしています。
その日の担当はスタッフの小川多恵さん(仮名36歳)でした。
小川さんは包容力があって、スタッフからの信望も厚く、誰の話にもしっかりと耳を傾ける人です。
登さんとは顔なじみでしたが、担当になったことはありませんでした。
「登さん、こんにちは。今日は小川がケアに入らせていただきます」。
挨拶をすると、登さんにしては珍しく両手を大きく広げて「今日はあなたなの。嬉しい」と歓喜の声をあげられました。
そしてベッドの横に置いてある人形を指さし、「私がよく泣くから、娘たちがこの人形を買ってくれたの。寂しくなったらこの子に話しかけてねと言って。子どもだましでしょ」と、笑って言われたそうです。
登さんは人形が人間ではないので、話しかけたところで寂しさを解消できないことなど分かっていましたが、娘さんの思いやりを否定せず、あえて受け入れていたのです。
それから、子どもの頃お母さんはお父さんの顔色ばかり見てかわいそうだったことや友人と長時間かかって歩いて通った女学校時代が一番楽しかったこと、優しい人だからと周りに勧められて結婚した夫はわがままだったのでまんまとだまされたなど、冗談を交えながら話されたのです。
ところが、時間が来たので小川さんが退室しようとすると、急に暗い表情になって「私は大きな音を出していないのに、お隣さんが何度も私の所に来て怒るの。今は居なくなったので安心したけど」と、ぽつりと言われたそうです。
事務所に帰った小川さんは早速そのことをこれまで登さんを担当していたスタッフ達に報告しました。
すると、スタッフ達は口々に驚きの声をあげたのです。
登さんが小川さんに話した内容は、自分たちが聞いたこともない話ばかりだったのです。
驚いたのにはそれだけではありません。登さんがお隣さんからの訴えを覚えていないと思い込んでいたのに、忘れていなかったからです。
いえ、忘れていたのかもしれませんが、自分のことを分かってくれそうな小川さんと話をするうちに、心の奥にあった辛い記憶がよみがえったのです。
なぜ登さんが小川さんの前では他のスタッフには語ったこともない話をしたり、忘れていたできごとを思い出したりしたのでしょうか。
はっきりとした理由は分かりませんが、多くの認知症の人と接した経験から出した私なりの答えはあります。
実は認知症の人は記憶力が低下しても、感情をつかさどる扁桃体が絶妙に働いて、感覚的に自分を理解してくれる人を、感知できる能力はアップしています。
もともと小川さんはコミュニケーションスキルが高いということもありますが、自分の感情や価値観を脇に置いて、登さんが認知症であるという先入観を持たずにフラットな気持ちで接したので、登さんは心を開いたのです。
それではコミュニケーションスキルが未熟であれば、認知症の人との距離は縮まらないのでしょうか。
そんなことはありません。認知症の人を理解したいという気持ちがあれば、相手の感情に伝わって、お互いの関係性は深まります。
その基本的な姿勢がないと、どれだけ認知症の人と時間を重ねても分かりあうことは難しいのです。
※事例は個人が特定されないよう倫理的配慮をしています。
認知症の人はスタッフによって違う顔を見せた |
あとで読む |
【尊厳ある介護】記憶力は低下しても、見分ける感知能力はかえって鋭敏に
公開日:
(ソサエティ)
Reuters
![]() |
里村 佳子(社会福祉法人呉ハレルヤ会呉ベタニアホーム理事長)
法政大学大学院イノベーションマネジメント(MBA)卒業、広島国際大学臨床教授、前法政大学大学院客員教授、広島県認知症介護指導者、広島県精神医療審査会委員、呉市介護認定審査会委員。ケアハウス、デイサービス、サービス付高齢者住宅、小規模多機能ホーム、グループホーム、居宅介護事業所などの複数施設運営。2017年10月に東京都杉並区の荻窪で訪問看護ステーション「ユアネーム」を開設。2019年ニュースソクラのコラムを加筆・修正して「尊厳ある介護」を岩波書店より出版。
|
![]() |
里村 佳子(社会福祉法人呉ハレルヤ会呉ベタニアホーム理事長) の 最新の記事(全て見る)
|