「ごめんなさい。今日はお金を持ちあわせていないので、帰らせていただきます」
デイサービス利用者の松市子さん(仮名82才)は、顔をこわばらせて相談員に謝罪されました。
「お金は要らないので、こちらでゆっくりしてください」。
相談員はなだめますが、松さんの耳には届きません。
それどころか、「すみません。許してください」と言われ、何度も席を立とうとします。
その度に相談員は同じ説明を繰り返しましたが、とうとう大きな声をはり上げておっしゃいました。
「いったい私がどんな悪いことをしたのですが、もう帰らせてもらいます」。
そう言うと、施設の玄関を目がけて走り出しました。
あわてて相談員は後を追いましたが、その足の速いこと。
やっと追いついたので、デイサービスに戻るようあの手この手で説得しましたが、頑なに拒否されたそうです。
やむを得ず、ご家族にお電話して自宅にお送りすることになりましたが。
これら一連の流れを聞いた私は相談員に尋ねました。
「何がきっかけで松谷さんの帰宅願望に火がついたのですか?」
「洗髪後いつもなら髪を乾かす程度なのですが、今日は時間があったので、松谷さんの髪をアップにしたのです。すると急にそわそわし始めたのです」。
「本人が髪をアップにして欲しいと言われたのですか」。
「いえ、きっと喜ばれるに違いないと私が勝手に思い込んだものですから」。
相談員は目を伏せて答えました。
松さんはアルツハイマー型認知症を発症されています。日常的な会話はできますが、理解力や判断力は低下していて、人や時や場所が分からなくなる見当識障害があります。
これまで、慎ましい生活をして夫と子どもを支えてきたので、金銭に関してはかなりシビアで、デイサービスの利用料も気にかけておられました。
だから、髪をアップにされたことで、デイサービスを美容院だと勘違いし、お金を請求されたらどうしようかと、不安になられたことは想像できないわけではありません。
加えて、ささいな行き違いでも自分を責めて「私が悪いのです」と言って一度殻に閉じこもると、そこから連れ出すことは容易ではないのです。
ですから、自分の思いとは裏腹にお金を持たず美容院に行って、迷惑をかけたあげく、無駄遣いまでしてしまったという自責の念に耐えかねて、感情が爆発したとしても不思議はありません。
相談員は髪をアップにしただけで、松谷さんをそこまで追い込んでしまうとは予想だにしなかったのです。
むしろ、綺麗になって喜んでもらえると考えていたのです。
実はスタッフがこのような間違ったアプローチをしてしまうことは、介護現場ではよく見受けられることです。
どちらかというと、介護の仕事に就いている人は、誰かの役に立ちたいという思いが強いからなのでしょうか。
利他的な思いで働くことは決して悪いことではありませんが、スタッフの価値観を一方的に押し付けているのであれば、自分を喜ばせているに過ぎないのです。そこには利用者は存在しません。
さらに、私が懸念することは、スタッフが善意で間違ったアプローチをしていることです。善意なので、自己満足になっていることに気付かないのです。
次にスタッフの利用者に「してあげる」といった上から目線です。スタッフが上なので、利用者のニーズが見えてきません。
間違ったアプローチの罠に陥らないようにするためには、「その思いは利用者のものか、それとも自分のものか」と、立ち止まって自身に問うことです。
これを繰り返すと、利用者の思いが聴こえてくるようになります。その思いに寄り添う時、利用者とスタッフは対等になって、分かりあえるようになるのです。
※事例は個人が特定されないよう倫理的配慮をしています。
スタッフの「善意」が傷つけることもある |
あとで読む |
【尊厳ある介護】髪をアップしたことで、帰ると意固地になった松さん
公開日:
(ソサエティ)
![]() |
里村 佳子(社会福祉法人呉ハレルヤ会呉ベタニアホーム理事長)
法政大学大学院イノベーションマネジメント(MBA)卒業、広島国際大学臨床教授、前法政大学大学院客員教授、広島県認知症介護指導者、広島県精神医療審査会委員、呉市介護認定審査会委員。ケアハウス、デイサービス、サービス付高齢者住宅、小規模多機能ホーム、グループホーム、居宅介護事業所などの複数施設運営。2017年10月に東京都杉並区の荻窪で訪問看護ステーション「ユアネーム」を開設。2019年ニュースソクラのコラムを加筆・修正して「尊厳ある介護」を岩波書店より出版。
|
![]() |
里村 佳子(社会福祉法人呉ハレルヤ会呉ベタニアホーム理事長) の 最新の記事(全て見る)
|