「何度も母の携帯に電話をするのですがつながりません。母は認知症なのにどうして外泊を許したのですか」。
施設利用者の定森直樹さん(仮名87歳)と桐子さん(仮名86歳)の息子さんは、受話器の向こうで語気を強めておっしゃいました。
「私たちは特別のことがない限り、利用者の外泊を止めることはできないのです」。少し戸惑いながらスタッフはお答えしました。
息子さんはご両親の保証人になっていらっしゃるので、契約書に利用者が外泊届を出せば、自由にできることをご存じのはずです。
そのルールを守って、お二人は湯治場に出かけたのです。いくら説明をしても息子さんは耳を傾けてくださいません。
それどころかますます怒って、「以前の母であれば、外泊をしても心配なかったのですが、この頃は電話にも出ないし、出ても話がかみ合わないのです」と、早口で訴えられるのです。
でも、どう考えても桐子さんに認知症があるとは思えません。
「年相応の物忘れはあったとしても、健康に気を付けて自立して生活されています」とお話するのですが、「身体の弱い父まで連れて湯治場に行くのは認知症で判断力がなくなったからです」と受けつけてもらえませんでした。
とにもかくにも、スタッフは宿泊先に連絡を入れてお二人の安否を確認し、息子さんともども胸をなで下ろしましたが。
入所前、定森さんご夫妻は高台にある自宅で暮らしていました。息子さんは遠方なので、先のことを考えて施設に入所されたのです。
私たちの施設を選ばれた理由は、平地で商店街の中にあること、自由に外出や外泊ができることでした。
入所後、直樹さんの歩行訓練も兼ねてお二人は毎日散歩に出かけるようになりました。その道すがらおやつを買うのが直樹さんの楽しみになりました。そして、杖がなくても歩けるほどお元気になったのです。
これまで桐子さんは夫の食事の用意があったので、馴染みの湯治場に行くことを控えていましたが、その心配がなくなったので一人でお出かけするようになりました。
妻が留守の間、直樹さんは一人でも毎日欠かさず散歩をし、食事の時間はレストランに来て召し上がり、何不自由なく妻の帰りを待っていました。
ところがある朝のことです。新聞受けの前で桐子さんにお会いしたので挨拶をすると、いつもと違って挨拶が返ってきません。
近寄って「耳が聞こえにくいのですか」と尋ねると、黙って頷かれます。すぐに耳鼻科の連絡先を紙に書いてお渡ししました。
そんなことがあったせいか、桐子さんは珍しく夫同伴で湯治場に行かれました。その数日後、息子さんからお母さんに連絡がつかないと、施設に電話があったのです。
息子さんは忙しくされており、施設に来られるのは年に数回あるかないかです。日頃は桐子さんの持っている携帯電話で連絡を取り合っていました。
もしかすると、息子さんはお母さんの難聴に気付いてなかったので、認知症と勘違いされたのかもしれません。それとも、自分が抱いている母親のイメージが崩れたので、思い込まれたのでしょうか。
遠方にいて電話で話すだけでは分からないことでも、いつも近くで接していると気付くことがあります。息子さんにはそれが通じませんでした。
湯治場から帰って来たお二人は、恐縮して謝罪に来られました。
その後、桐子さんから退去届が出されました。息子さんが近くのアパートを借りてくれたそうです。直樹さんは「ここを離れたくない」と何度も呟かれました。
お二人は引っ越しの手続きを自分たちだけで行い、周りの利用者への挨拶もそこそこに息子さんの所に行かれました。
それから数か月経ったころでしょうか。桐子さんからお手紙をいただきました。
そこには直樹さんが部屋に引きこもるようになって急逝したこと、時々施設の生活を想い出しては懐かしがっていたことなどが書かれていました。
直樹さんは数か月という短い期間でしたが、息子さんの近くで過ごせて幸せたったのでしょうか。未だ答えが見つかりません。
(注)事例は個人が特定されないよう倫理的配慮をしています。
遠方にいて母を認知症だと思って心配する息子 |
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【尊厳ある介護(119)】身近にいればこそ気付けること
公開日:
(ソサエティ)
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里村 佳子(社会福祉法人呉ハレルヤ会呉ベタニアホーム理事長)
法政大学大学院イノベーションマネジメント(MBA)卒業、広島国際大学臨床教授、前法政大学大学院客員教授、広島県認知症介護指導者、広島県精神医療審査会委員、呉市介護認定審査会委員。ケアハウス、デイサービス、サービス付高齢者住宅、小規模多機能ホーム、グループホーム、居宅介護事業所などの複数施設運営。2017年10月に東京都杉並区の荻窪で訪問看護ステーション「ユアネーム」を開設。2019年ニュースソクラのコラムを加筆・修正して「尊厳ある介護」を岩波書店より出版。
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