かつて在職した会社で総務部門の管理職をしていた頃、1日に届くメールは100件を超えた。編集部門にいた時の軽く2倍。事務系の職場はこんなに忙しかったのかと驚きながら最初は一件一件チェックした。その正体がすぐに分かった。半数近くが「CC」(Carbon Copy)なのだ。つまりメールの宛先は別にあり、当方に来たのはあくまで「参考」なのである。
内容は玉石混交だが、ほとんどは事務作業の途中経過やプロジェクトの進捗状況。ポスターのデザインやシンポジウムの委託費の内訳まで、業者とのやりとりを逐一伝えていた。おおちゃくで面倒臭がりの筆者は、すぐに「CC」を無視するようになった。いちいち見ていると他の仕事に差し支える。そもそも大事なことは直接言ってくるだろうと高をくくったのだ。
これがいけなかった。重要な業者との会議の日程が「CC」で送られているのに気付かず、すっぽかして外出してしまった。難詰された筆者が「大事なものはCCじゃなく口で言ってくれよ」と逆ギレすると、スタッフはあきれた風情でこう言った。「欠席したのは1人だけですよ」
以来、「CC」文化がビジネス界広く認知されていることを知るにつけ、我がサラリーマンライフがもはや長くないことを思い知った。
だが「ヤマセン独り孤塁を守る」ではないが、孤立すればするほど意地になるのが昭和のオヤジである。まず自分を守るための理屈探しから始めた。考えたのは「CC」文化の起源である。これはもしかして筆者が若い頃に流行した「ホウレンソウ」文化に由来するのではないか-。
1990年代だったか、上司・同僚への「報告」「連絡」「相談」を意味する「ホウレンソウ」は若い社員の必須要件と推奨された。筆者が身を置いた取材・編集の世界では「何を馬鹿言ってんだ」と背を向ける風潮が強かったが、コスパとコンプラを重視する当時の新自由主義ブームと相まってビジネス界では一定の影響力があったようだ。
一方で「ホウレンソウ」は形式主義の象徴とされ、2008年のリーマンショック以降の景気低迷以降聞かれなくなったが、ここにきて「CC」に装いを変えて再び姿を現したというのが筆者の見立てである。
ただし「ホウレンソウ」はどちらかと言うと、何でも知っておきたい不安症の上司からの要請だったのに対し、「CC」は部下の方から先回りして伝えておくという色彩が濃い。その本質は情報の共有というよりも、何でも耳に入れておけば後から文句は言われないはず、という責任回避である。
かくして、若いスタッフたちは「これは自分で決める」「あれは協議が必要だ」という仕事をしていく上で最も大事な判断力を失い、事実上、上司に責任の丸投げを図ることになる。詰まるところ、「CC」文化は「ホウレンソウ」文化に対する若い世代の“逆襲”ではなかったか。
「CC」を軽視していると管理職は痛い目に遭う。かといって、そこに潜む“闇”に気付かないとすべての責を負い、部下たちは怠惰に流れる。若いスタッフからの「CC」を抵抗なく受け入れている上司の皆様、ご注意あれ。
『CC』 ホウレンソウ文化への“逆襲”か |
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公開日:
(ソサエティ)
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ゾルゲかわはら(コラムニスト)
現代社会を街場から観察するコラムニスト。金子ジムでプロボクサーを目指すも挫折。鮮魚卸売業、通信社記者、東大大学院講師を経て2019年からフリー
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