沖縄返還から50年。いくつかの拙文を書いてきたためか、関連の座談会やシンポジウムに呼ばれることがある。
本土と沖縄の若者の対談の進行役をやったときのことだ。双方の話し方にえも言えぬ語調の違いがあることに気が付いた。
沖縄の若者が発する言葉は割と論旨がはっきりしているのだが、本土の若者はなんだか靄がかかったような物言いが多い。途中から内容そっちのけで、この違和感は何なのかに関心が寄ってしまった。
象徴的なのは「…と思っていて」という言い方だ。沖縄に基地が集中する問題について東京の男子学生はこう言った。「原発やダム建設などを含めて地域ごとに一定の負担を担うのが国の仕組みだと思っていて、中国や朝鮮半島に近い沖縄に基地が集まるのもそうしたものの一つではないか」
別の女子学生の話はこうだ。「沖縄の怒りは基地の多さに比べて国の支援が少ないと感じていることが背景にあると思っていて、そのことが正しいかどうかをまず精査することから始めるべきではないでしょうか」
しばらくはおとなしく聞いていた沖縄の学生も、途中で「議論の焦点がかみ合わない」と声を荒げた。イラついたのは内容ではない。本土の学生が言う「…と思っていて」の話法にある。
フツ―は「…と思っています」とまず主張したい結論を告げ、そのあとに「なぜなら」と続く。「主張→理由」(逆の場合もあるが)という構図だ。
一方「…と思っていて」の話法は似ているようで違う。この言い方は「…」部分が話者にとっては動かしがたい大前提として提示される。そして、それに続くのは理由ではなく、前提から導き出した感想や凡庸な対策。
何度も聞くうちに彼らの主張は、大前提として示された「…」部分にあることが分かってきた。
つまり「…と思っていて」話法のトリックは、最も言いたいことをあたかも所与のことのように装って示し、その後の話に重点を置いたような言い方で論難を避けている点にある。要は「…」部分は突っ込んでくれるな、というリスク回避だ。
先の対談でも沖縄の学生たちはそれを見抜いて「原発やダムの誘致は少なくとも地元の同意がある」「国の支援不足が沖縄の怒りの原点だという根拠は何か」と追及した。
沖縄の学生にその話法が通じなかったのは、本土では暗黙の了解とされたはずの若者話法がまだ行き渡っていなかったからか。
ではなぜこのような詐術まがいの話法が流行るのか。それは「熱い論争」に巻き込まれ、返り血を浴びたくないという無意識の自己保身術なのだろう。
「…と思っています」と言い切ると、そこに焦点が当たり炎上する恐れがある。だから「言いたいこと」を「前提条件」のうように装い、凡庸な“結論”を付け足して話を丸くするのだ。
本土の話者には「個人的には」という言葉も頻繁に登場した。これにも同様の潜在意識がみてとれる。どこかの組織を代表して語っていないことは皆分かっている。それでもあくまで私見だと強調することで、異論があることは承知していますよ、あまり攻め込まないでね、とあらかじめ予防線を張る言葉だ。
若者たちはどうしてそこまでして「熱い論争」を嫌うのか。おおやけの場で恥をかきたくない? オヤジ世代のようなストレートな咆哮はみっともない?
でも議論というのは、主張の正しさを証明するためでも、あるいは相手を論破するためでもなく、他者の声によって自分の考えを修正し、本質に近付くためのものではなかったか。
自己防衛話法の流行は、若者たちが議論の目的を見失っていることの証明に他ならない。数十年後、彼ら彼女らがオジサンやオバサンになり、なお「…と思っていて」と語り続ける世の中は、想像するだけで寒気がする。
『…と思っていて』 “熱い論争”嫌う自己保身術 |
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【現代「要」語の基礎知識】議論の目的見失う若者たち
公開日:
(ソサエティ)
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ゾルゲかわはら(コラムニスト)
現代社会を街場から観察するコラムニスト。金子ジムでプロボクサーを目指すも挫折。鮮魚卸売業、通信社記者、東大大学院講師を経て2019年からフリー
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