いまや世界的ボクサーになった井上尚弥がまだ売り出し中だった7年ほど前、有明コロシアムに試合観戦に行った時のことだ。メインの井上の試合が始まる直前、特設ステージに「ももいろクローバーz」が登場し3曲も歌と踊りを披露した。
場違いな大音響の中、2階席にいた数百人のももクロファンはペンライトを振りかざしていたが、驚いたのは彼女たちのステージが終わると彼らが一斉に席を立ち、去っていったことだった。彼らはももクロだけを見に、ボクシングチケットを買っていたのだ。2階席の大半がぽっかりと空いたまま、井上の試合は始まった。
スポーツとエンタメの同居が当たり前になったのは平成時代の後半くらいからか。昭和のオヤジはバレーボールの世界選手権にジャニーズ系のタレントが“応援団長”として帯同したことに違和感を抱き、織田裕二が陸上の世界選手権で毎回メインの進行役を務めるのをみて諦観した。
いやはや、時代は変わったのだ。真剣勝負の緊張感はもはや二の次。放映する側にとっては視聴率の向上策、主催者側も競技に関心を持ってもらうきっかけに、との思いがあるのだろう。
でも主催者側の思惑とは違って、競技の裾野を広げることと奥行き深めることとはなかなか両立しない。競技の大衆化、エンタメとの同居は裾野にいる人々にとっては歓迎かもしれないが、目利きのファンはげんなりだ。それは試合後のインタビューにも表れる。
最近のインタビュアーは試合内容よりもまず選手の境遇や苦労話に水を向けたがる。その競技を深く知らなくても、共感を誘う話だからだ。それに応じて選手も支援者への感謝をまず口にする。「支えてくれた家族だったり、応援して頂いた〇〇社(所属企業)さんだったり、そうした方々がいたお陰です。ほんとうにありがとうございました」
昭和のオヤジはこの感謝の言葉で興ざめする。試合や競技が素晴らしければ素晴らしいほど、最初のセリフがこれか、と肩透かしを食らう感じだ。加えてこの「~だったり」という間抜けなフレーズ。
スポンサーを中心にお世話になった方々の言い洩らしがあってはいけないという選手の心理が透けて見え、試合の興奮は一気に冷める。そうか、あれほどの試合をした選手にとっても大事なのはやはり「生活」なのだと。
インタビュアーはこの「感謝」の文脈から外れることなく、選手の家族の話や将来の目標などを問い掛けるだけで時間を使い切ってしまう。
その競技が好きで見ている視聴者にとって聞きたいのは、選手当事者にしかわからない試合のあやであり、相手の手応え、事前に描いた作戦との齟齬といったことなどだが、どうやら最近のスポーツにそうしたものを求める視聴者は少ないらしい。
米国のボクシング全盛期、ラリー・マーチャントという解説者がいて、試合後のリング上で彼が何を問うかが拳闘ファンの間では試合のもう一つの楽しみだった。ある時、倒し倒されの大激戦の末に王座を空け渡した敗者に対して、マーチャントはこう切り出した。
「Congratulations!(おめでとう)」。訝る敗者に彼はこう続けた。「あなたは今晩、みんなが終生忘れない試合をしたんだよ」。それはまさに観客や視聴者の思いを代弁した言葉だった。意を理解した敗者は声を詰まらせてこう答えた。「ラリー、あんたがそう言ってくれる試合がしたかった」
良き聞き手は、珠玉の言葉を引き出す。間抜けな「~だったり」はもう聞きたくない。支援者への感謝はどうか別の場でやってほしい。
『~だったり』 スポーツインタビューの間抜けな問答 |
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【現代「要」語の基礎知識(19)】スポンサーなど支援者への感謝は別の場で
井上尚哉選手=公式WebSiteから
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ゾルゲかわはら(コラムニスト)
現代社会を街場から観察するコラムニスト。金子ジムでプロボクサーを目指すも挫折。鮮魚卸売業、通信社記者、東大大学院講師を経て2019年からフリー
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