「力作」と言われて心底うれしいと思えたとしたら、相当おめでたい人だろう。なぜなら、いまの時代、これは誉め言葉ではない。どう褒めていいか分からない出版物の著者に向けて多用される慰めの言葉である。
乾坤一擲の著作に対し、あちこちでそう言われてきた筆者はしみじみそう感じる。ちなみに、これに近い語感があるのが「労作」。いずれも「努力は多とするが・・・」の「・・・」という言外のニュアンスの方にアクセントがある。
大手出版社のベテラン編集者によると、現代の出版物は二極化しているのだという。出版不況の中、増刷を重ねるには事前に周到なマーケティングが必要。時代の空気を読み取り、社会のニーズを探る。小説であれ実務書であれ、それは一定程度の販売を確保するための必須要件だという。
キーワードは「癒し」「前向き」「即効性」。この3つの要素をうまくまぶし、そのうえで、やさしい文体で仕上げる。でないと、スマホやタブレットで読む若者たちは途中で放り出してしまうのだそうだ。つまり、書き手がいかに自分を殺し、世の中の嗜好に合わせるか。ユニクロの商品開発とそう違わないメソッドが求められるらしい。
もう一つの極にあるのは、逆に世間の風などうっちゃって、自身の書きたいことを自身の文体で書いた著作物。ときにマーケティングのブラインドに入っていた世間の潜在的ニーズにヒットして評判を呼ぶこともあるが、そんなことはまれ。首尾よく出版されても、たいていは初版で返本が相次ぎ、そのうち絶版となる。
「力作」「労作」は、当然ながら後者に向けられる言葉だ。では「努力は多とする」の「努力」とは何なのか。前者の書き手は必死に世間の風を読み、自分を殺しながら書いているのだから、それこそ「努力」している。
一方で後者は世間を無視して、書きたいことを自分の好きな文体で書いているのだから「努力」より「享楽」が優っているはずだ。でも売れない。だから周囲は「売れもしないのに、よくもまあ時間と精力を使って」と半ば侮蔑したニュアンスでその労を多とするのかもしれない。
いやいやそんな意味ではない、とのたまったのは私の友人の大学教授。彼いわく、自分が書きたい本が売れないことはわかっている。売れない本を出版するには、知り合いの編集者をたぶらかす必要がある。どこそこに書評を書かせる、著名人に推薦文を書いてもらう、大口の購入先を紹介する等々、あることないことを言って編集者をその気にさせる。
無理を道理に変える力業。「労作」「力作」は、書くこと自体ではなく、そうした出版に至る前の「たぶらかし」の努力を指した実態のある言葉なのだという。なるほど、言われてみれば筆者の著作はたしかに「力作」ではあったか。
「力作」ー『労を多とする』の中身とは |
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【現代「要」語の基礎知識(2)】「癒し」「前向き」「即効性」で計算して書くのが今風だが
公開日:
(ソサエティ)
cc0 by Kelli McClintock
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ゾルゲかわはら(コラムニスト)
現代社会を街場から観察するコラムニスト。金子ジムでプロボクサーを目指すも挫折。鮮魚卸売業、通信社記者、東大大学院講師を経て2019年からフリー
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