野球にしろサッカーにしろ、最近のスポーツ中継で多用されるのがこの言葉。「なんやかんや言っても、彼は結果出してますからね」「練習はしてきました。あとは結果ですね」等々。最近でこそ慣れたが、最初耳にしたときには大脳がちゃんと受け止めてくれなかった。
「結果」が「良い結果」「成果」という意味で使われていることは何となくわかった。ではなぜそう言わないのか。「結果」と略した方がしゃれている? いや、この言葉が使われはじめたのにはもっと深いワケがありそうだ。
「結果」の反対語は「経緯」「プロセス」。古来、この国ではプロセスを重視してきた。努力することが大事と教えられ、成績そのものよりも額に汗することを尊しとした。
だから人々は無敵の剛腕ではなく「悲運のエース」に心を寄せ、圧勝の金メダリストよりもゴール手前で抜かれた銅メダリストのマラソンランナーを記憶した。昭和の時代のプロセス重視は、努めても報われぬ自分自身へのエールでもあったのだろう。
その古き良き時代が変化し始めたのは時代が昭和から平成に変わる頃。新聞のデータベースによると、この不思議な言葉の“最古”の使い手は意外にも近鉄バッファローズの仰木彬監督。シーズン前のインタビューで「目標は勝つこと。結果を出すには練習しかないのですから」(1988年2月6日付読売)と述べている。
この頃からスポーツ界に「良い結果」を「結果」と縮める文化が定着していく。それが経済界に広まったのが1990年代後半。銀行や証券の相次ぐ破綻と連鎖倒産で多くの失業者が社会にあふれ、余裕を失った企業社会が求めたものは「プロセス」や「努力」ではなく「成果」だった。
世に言う新自由主義の台頭である。このイデオロギーの核心は世の中にあふれるややこしい経緯を捨象して目に見える「成果」をいち早く出すことだった。だが「成果」ではあまりに露骨。その露骨さを脱色する言葉として出てきたのがスポーツ界で使われていた「結果」であり、企業社会では「結果主義」として広まった。
その後、結果主義は経済界だけでなく、この国全体を席巻していく。小選挙区制が導入された政治の世界は微差で負けても勝者総取りとなり、大学では実利を伴わぬ人文系や基礎科学への予算削減が議論された。メディア界ではNHKまでが視聴率競争に参入し、デジタルの世界は「いいね」の数や再生回数だけがコンテンツ評価の指標となっている。
この風潮を加速させた最大の“功労者”は前首相の安倍晋三氏だろう。「政治は結果」と言って憚らなかった安倍氏を高支持率で支えた多くの国民は、それが社会の閉塞感を打開するための決め手になると期待したのかもしれない。
だが、その先に待っていたものは格差の拡大と分断に象徴される民主主義の荒廃ではなかったか。「日本を取り戻す」はずだった7年8カ月の長期政権で、この国は皮肉にも、長く培ってきた大事なものを失ったのかもしれない。
「結果を出してます」 新自由主義のまん延とともに流行 |
あとで読む |
【現代「要」語の基礎知識(3)】平成のはじめに近鉄の仰木監督が使う?
公開日:
(ソサエティ)
![]() |
ゾルゲかわはら(コラムニスト)
現代社会を街場から観察するコラムニスト。金子ジムでプロボクサーを目指すも挫折。鮮魚卸売業、通信社記者、東大大学院講師を経て2019年からフリー
|
![]() |
ゾルゲかわはら(コラムニスト) の 最新の記事(全て見る)
|