世の中にあふれる謝罪会見。失言で炎上した政治家や芸能人に頻繁に使用される言葉がこれだ。その前後に「真意が伝わらなかった」と補足されるケースも多い。アソウさん、モリさんといった常連から、ブログでつい調子に乗ってしまった若手タレントまで使い手は後を絶たない。
この言葉を発する人たちは二つの罪を自ら追加している。一つ目は話のすり替えである。賢明な読者ならご承知のとおり「誤解を招いた」とした発言は、たいていの場合、誤解を招いたわけではない。
言葉が滑ったわけでもない。言いたいことはちゃんと伝わっている。単に本人のゆがんだ世界観があらわになっただけの話である。だから真意もへったくれもない。それをあたかも真意が別にあったかのごとく詭弁を弄する。これは世を欺く罪だろう。
もう一つの罪は、聞き手側に一定の責任を被せている点である。誤解とは、聞き手が話し手の言葉を間違った意味に受け取ることだ。つまり聞き手の理解力にも問題を帰しているということになる。
誰が聞いてもそうと受け取るようなことを「誤解された」とは言うのは笑止千万。もし万が一、別に真意があったとしても、それは聞き手の「誤解」ではなく、話し手の日本語力の問題である。
不思議なのは、こうした謝罪会見で「何をどう誤解されてしまったとお考えですか」「問題になったフレーズは何を言いたかったのですか」などと発言内容を深追いする質問が出ないことだ。質問の多くは事後の心境や「これからどうするつもりか」といった身の処し方に終始する。
だから見ている方にはもやもや感が溜まる。こんなことでは記者という仕事に「誤解」を招きかねないぞ。と、ここまで考えて、いや、それこそ筆者の「誤解」なのだと思い至った。
「誤解を招いた」発言で脚光を浴びるのは、そこそこの著名人だ。著名人、つまり大臣や有名タレントには必ず番記者がいる。番記者はこの先もこの著名人と付き合い、所属政党や事務所などの庇護者たちを視野に入れて仕事をしていかなければならない。
先々、「あのときは随分ときついことを言ってくれたな」なんて思われたら商売あがったり。ここは武士の情けの出しどころである。番記者の「真意」は発言者の失言を追及することではなく、追及したふりをして“反省の深さ”を伝えることにあるのだ。謝罪の場が正式会見でなく囲み取材が多いのは、こうした事情を忖度してくれる番記者だけを集めたいという失言者側の戦略なのだろう。
謝罪会見をめぐるもやもや感は、こうした歌舞伎的な日本社会の産物である。かくして失言者は反省もそこそこに、また同じことを繰り返す。「またあの人なの?」という失言者の常連化は番記者を含めたムラ社会の構造的問題なのだ。
「誤解を招いた」 話し手の日本語力の問題なのに |
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【現代「要」語の基礎知識(5)】「誤解」を追及しないのは「番記者」のお約束ごと
公開日:
(ソサエティ)
森元首相=Reuters
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ゾルゲかわはら(コラムニスト)
現代社会を街場から観察するコラムニスト。金子ジムでプロボクサーを目指すも挫折。鮮魚卸売業、通信社記者、東大大学院講師を経て2019年からフリー
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