世の中でこの言葉がよく使われる場所は2つ。一つはもちろん大相撲の世界。行司のこのひと言で土俵の空気はぐっと引き締まるのだが、近年の相次ぐ立ち合いの乱れは逆に行司の権威を落とす皮肉な結果になっている。
もう一つは囲碁・将棋。かつては子供を相手にするときの決まり文句だった。しかし最近は英才教育を受けた子供が大人相手に諭すことが多いという。これも時代の流れか。
勝負の世界から発祥したこの言葉は、さまざまな分野で援用される。最も借用率が高いのが新聞の社説欄だ。1984年から朝日新聞の記事データを収録している「聞蔵Ⅱ」で「待ったなし」のヒットはなんと3684件。単純計算では3~4日に1回は諭されている勘定だ。
年次別にみると、ちょうど昭和から平成へと元号が変わる1989年ごろから急激に増えている。これはなぜか。火を付けたのはリクルート事件をきっかけとした当時の政治改革ブームである。創業者から未公開株を譲り受けた政官界の実力者たちが公開後に値上がり益をせしめたこの事件で、世の人々は今では考えられないほどの怒りをあらわにした。
世論に押される形で新聞も相次いで「政治とカネ」をめぐるキャンペーンを始め、政界ではカネのかかる中選挙区制をやめて二大政党が競う小選挙区制への転換、つまり政治改革が最大の焦点となった。
そこで新聞各社の社説でこぞって使われた言葉が「待ったなし」だった。金権政治の温床をたたくという「改革」の大義にすべての新聞社が同調し、反対する議員らを「守旧派」と蔑称して「待ったなし」を連呼した。
そのメディアの中でただ一人、改革に「待った」を公言する人がいた。朝日新聞編集委員だった石川真澄である。石川は「51%取れば当選できる小選挙区制は49%の死票を生む。それは多様な意見を重視する民主主義の精神と逆行する」と訴えた。だが、その声は圧倒的な世論とメディア攻勢の前にかき消され、「改革」は成就する。
その政治改革から四半世紀。二大政党制ははるか遠景に去り、民意なき政治がまかり通る。政治改革の仕掛人だった河野洋平、細川護熙といった当時の議員OBらは中選挙区制に戻すべきだと声を上げ、「待ったなし」を連呼した新聞の中にも、小選挙区制見直し論を掲げる社も出始めた。舌の根が十分乾いたからなのか。
それでも新聞の「改革」好きは今も変わらない。そして「改革」を主張する社説には付属品のように「待ったなし」が付く。聞蔵Ⅱで検索すると、ここ数年の「待ったなし」が入った文章の3割強には「改革」の文字がある。
政治の世界も同様だ。今年初めの菅義偉首相の施政方針演説には「改革」の文言が10回も登場。社会保障改革のくだりでは「若い世代の負担上昇を抑えることは長年の課題であり、いよいよ待ったなしです」と、古色蒼然の言い回しに恥じるところがない。
メディアや政治をなりわいとする人々は、世論の大勢を意識しつつ少数意見に潜む本質を探り当てることを矜持としてきた。世間の目に届かない本質を、なんとか伝えようとする彼らの言葉と情熱こそが、大勢に流れがちな民主主義を支えてきた。
賞味期限の切れた定型句が蔓延する昨今の風景は、彼らの矜持の喪失とこの国の荒廃を象徴しているようにみえる。
「待ったなし」ー社説で多用 賞味期限の切れた定型句 |
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菅首相=ccby内閣広報室
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ゾルゲかわはら(コラムニスト)
現代社会を街場から観察するコラムニスト。金子ジムでプロボクサーを目指すも挫折。鮮魚卸売業、通信社記者、東大大学院講師を経て2019年からフリー
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