若い頃からせっかちで歩くのが速いせいか、街中は障害物競走さながらだ。このところの最大の障害物はうつむいたまま、ゆるゆると接近してくる「歩きスマホ」の面々。
先方は自分の視界に入った段階でよけるつもりなのだろうが、当方の速度はフツーの1・5倍だからクラッシュ寸前になることもしばしばだ。こちらで進路を譲るたびに「なぜ俺がよけなければいけないのか」と少しイラっとする。
もちろん文句を言ったことはない。なにせ敵は現代の二宮尊徳である。目線はスマホに集中。おまけにたいがいは耳にイヤフォン、口にはマスク。首から上の穴たる穴すべてを塞ぐ完全防備の状態で自分の世界に浸りきっている。
いつも思うのだが、彼ら彼女らをそこまで惹き付けるコンテンツとは何なのか。電車の中でスマホとにらめっこしている乗客の画面をのぞき見してみた(失礼!)。LINEのやり取り、ニュースサイトの閲覧、乗り換えの検索など、まあなるほどと理解できる使い方をしている人も少なくない。
だが大半はゲームに興じているかドラマなどの視聴、あるいは関心サイトの閲覧である。かつては自室でひっそり楽しんでいた趣味の世界を公共空間に堂々と持ち出しているのだ。そして、こうした連中こそが電車を降りても公道で歩きながらゲームやドラマの視聴を続けている。「歩きスマホ」の正体は、不要不急の趣味を公道で満たしている人々なのである。
公共空間に私的欲求が持ち出されるようになったのはいつの頃か。平成の半ば、電車の中で握り飯を食ったり化粧を始めたりする若者が急に増えだした。「おいおい、ここはお前の家じゃないんだぞ」といつか言ってやろうと思っていたら、いつの間にかこれが日常の風景となり、こちらが少数派に転じていた。
注意深く観察すると、当時の彼ら彼女らはたいがい単独行動で、友人知人といるときはそんなことはしない。つまり一人飯を食う、化粧をするという行為は大事にしている人の前で堂々とやることではないという自覚はあったのだろう。言い換えれば、車内にいる名も知らぬ乗客どもは彼ら彼女らにとって「人」ではなかったということだ。
「歩きスマホ」はその延長線上に出てきた怪物である。ネット空間で培われた自我と匿名性は友人知人のいない公共空間で増殖し、見も知らぬ人間は「人」ではなくなった。他者目線は失われ、「みんながやってるから」という付和雷同のあまえが「歩きスマホ」に大義を与えた。
そしてこの国に受け継がれてきた「たしなみ」を喪失させた…。と、ここまで書いて「おまえにも身に覚えがあるだろう」という天の声が聞こえてきた。
そう、かつて筆者がやっていた路上喫煙や歩き煙草も同じことである。喫煙率が高かった時代「みんながやっているから」と、すれ違う人の危険も省みず、自身の私的欲求を公共空間に持ち出していた。
歩きたばこはトラブルや事故が相次ぎ、自治体の条例などで禁じられるのだが、筆者自身それまで自制できなかったのだから「歩きスマホ」にとやかく言う資格はたしかにない。他者目線をなくし好き勝手やっていた当時の自分を思い出すと汗顔の至りである。
「歩きスマホ」も大きな事故などをきっかけにいずれ法の網がかかるはずだ。しかし、それまでは「みんながやっているから」の免罪符が大手を振ってまかり通るだろう。人間が今も昔も自分の頭で理非を判断できない愚かな動物なのである。
『歩きスマホ』 他者目線失い人間の愚かさ映す |
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【現代要語の基礎知識(13)】「みんなやっている」が免罪符に
公開日:
(ソサエティ)
歩きスマホ=㏄byMichaelCoghlan
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ゾルゲかわはら(コラムニスト)
現代社会を街場から観察するコラムニスト。金子ジムでプロボクサーを目指すも挫折。鮮魚卸売業、通信社記者、東大大学院講師を経て2019年からフリー
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