菅政権は先週、東京電力福島第一原発の処理水を海洋放出する方針を決めた。東京電力は原子力規制委員会の認可を受けて2年後をメドに放出を始める計画だ。風評被害が起きた場合は東電が被害の実態に見合った賠償をする。
第一原発で発生する汚染水は多核種除去設備(ALPS)で多くの種類の放射性物質が除去されるが、三重水素と呼ばれるトリチウムだけは化学的に水素と同じ性格を持ち水の形で存在するため、ALPSでは取り除くことができない。だからタンクに保管されているすべての処理水にはトリチウムが含まれている。
処理水を貯めるタンク1基の容量は1000~1300トン。処理水は1日平均で約170トン増えるので7〜10日で満杯になる。処理済みの水はこれまでに約125万トンにのぼり、1000基を超えるタンクで保管されている。敷地内には今後取り出した燃料デブリを一事保管する施設も必要になるため、2022年秋頃にはタンクを置く場所がなくなってしまうと東電側は説明する。
事故発生から10年後の今になって、政府が突然,トリチウムを含んだ処理水を海洋放出する決定を下したことに違和感を抱く向きは少なくあるまい。
だがこの決定は突然のように見えて実は政府と東電の間で巧妙に仕組まれたシナリオに沿うものだと指摘する専門家が多い。原発行政を所管する経済産業省と東電の間では、事故発生当初から、処理水は海洋放出以外にないということで一致していた。
一方、地震と原発事故で壊滅的な被害を受けた地元の水産業関係者はこの10年、福島産魚介類などの水産物の安全性を広く内外の消費者に理解してもらうため、放射性物質の厳格なチェックなど血のにじむような努力を続けてきた。
処理水の海洋放出が化学的に無害と政府が説明しても、地元水産関係者は新たな風評被害を生むと懸念しており、これまでの努力が無駄になってしまうと不安を強めている。これに対し、政府、東電側はこれまで機会があるごとに福島県漁連に対し、「関係者の理解なしにいかなる処分も行わない」と伝えていた。
この約束を反故にして、今回政府が海洋放出に踏み切ったのは、経産省の強い意向が働いていた。経産省は核のゴミ(高レベル放射性廃棄物)の最終処分場探しの時もそうだが、時間をかけて世間の関心が薄れるのを待ち、財政が苦しい過疎地域に札束をたたいて候補地として手を上げさせる手法をとってきた。
今回の海洋放出についても、10年の歳月をかけて地元の反対意見の沈静化を待ったがうまくいかず、これ以上原発の事故処理を送らせることはできないと判断、「風評被害について十分な補償をする」と札束攻勢を視野に入れている。
トリチウムを含んだ処理水の海洋放出については、これまでも国際基準を守って日本の既存原発は実施してきたし、海外でも一般的に行われている。今回は通常の原発稼働下で発生する処理水ではなく、事故による特別の事情で発生した処理水であるため、放射線量を国際基準より大幅に薄めて流すなど「科学的に細心の配慮をする」と経産省は説明している。
だが、事故後10年経った今も、韓国や中国、台湾など周辺国・地域からの警戒心は強い。今回の政府決定についても、韓国、中国、ロシアなどから強い批判が寄せられている。ロシアは福島の放出現場に独自の調査船を派遣したいと伝えてきている。
処理水を実際に放出する場合はタンクに保管している処理水を再びALPSで処理した上で、海水で薄めて放出するなどの手間がかかるため、2年近くの時間が必要だ。この間に風評被害を防ぐため,放出する場合は客観的で信頼できる放射線物質のモニタリング体制を整えなければならない。
その際、不都合なことが起これば隠すのではないかといった海外からの批判に応えるため、国際原子力機関(IAEA)などと協力し、政治色を排したうえで、日本に批判的な周辺国の専門家などを加えた国際的な調査チームを編成する方法も考えられる。
さらに政府も東電も海洋放出を当然視してきたため、この10年間、処理水の中からトリチウムを取り除くための技術開発にはそれほど力を入れてこなかった。「お金はかかるが、技術的には不可能ではない」と多くの専門家は指摘する。スウエーデンでは次世代の知恵に期待し、「廃プラスチックの処理方法が分かるまで燃やさず、そのままの状態で保管」する実験に取り組んでいるという。
処理水からトリチウムを取り除く新技術が近い将来実現しそうなら、処理水の保管場所を現在の敷地以外に広げ、放出を中止する選択も残しておくべきだろう。
政府も東電もこれからの2年間、札束攻勢ですべて解決などと高をくくらず、地元が懸念する風評被害を取り除き理解を得るためできうる限りの努力をしなければならない。
福島原発の処理水 トリチウム除去の技術開発も |
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【緑の最前線(92)】突然ではなかった海洋放出
公開日:
(ソサエティ)
福島第一原発の処理水タンク=Reuters
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三橋 規宏(経済・環境ジャーナリスト、千葉商科大学名誉教授)
1940年生まれ。64年慶応義塾大学経済学部卒業、日本経済新聞社入社。ロンドン支局長、日経ビジネス編集長、科学技術部長、論説副主幹、千葉商科大学政策情報学部教授、中央環境審議会委員、環境を考える経済人の会21(B-LIFE21)事務局長等を歴任。現在千葉商大学名誉教授、環境・経済ジャーナリスト。主著は「新・日本経済入門」(日本経済新聞出版社)、「ゼミナール日本経済入門」(同)、「環境経済入門4版」(日経文庫)、「環境再生と日本経済」(岩波新書)、「日本経済復活、最後のチャンス」(朝日新書)、「サステナビリティ経営」(講談社)など多数。
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