――出版のきっかけは、本書の主役のひとりでもある土持敏裕元福岡地検検事正が亡くならたことにあるのですか。
本書にも記しましたが、週刊新潮から土持さんの評伝のような記事を頼まれ、昨年3月に掲載しました。その記事を読んだ新潮社の編集者から工藤會会事件についてまとめませんか、と声を掛けていただいたのです。
工藤會は平気で市民に銃や刃を向け、警察官OBまで襲撃するような特異な暴力団です。そのトップを摘発するのに、現場の警察官や検事がいかに苦労したのか、それを伝えてほしい、と土持さんら複数の検察関係者に言われていたこともありました。一審判決が出て、捜査に対する評価がある程度、固まったこともあり、取り組むことにしたのです。
――奈良で暗殺された安倍晋三元首相と工藤會のトラブルにも本書で触れておられますね。
今回の裁判で死刑判決がでた五代目工藤會総裁の野村悟さんが四代目工藤會会長となって半年後の2000年6月、下関の安倍さんの自宅に火炎瓶が投げ込まれ、車と車庫が焼けました。
3年後に工藤會系の組幹部と会社社長が放火などの容疑で逮捕・起訴され、07年に実刑判決が出ています。判決は、この社長が1999年の下関市長選で安倍さんが支持する候補の選挙に協力した見返りに金を要求したが断られ、その恨みを晴らそうと組幹部らと共謀して放火したと認定しています。
――工藤會の傍若無人ぶりがエスカレートするなか、福岡県警は捜査のエース、尾上芳信氏を2013年3月に暴力団対策部北九州地区暴力団犯罪捜査課(北暴課)の課長に据えます。そこから流れが変わるわけですね。
県警で強盗、殺人事件などを扱う捜査一課畑育ちの尾上さんは、暴力団内部や周辺関係者から情報をとる伝統的な(旧捜査四課型の)暴力団捜査を、客観的な証拠集めと分析を重視する捜査一課型の捜査スタイルに変えました。それが功を奏し、若手を中心に捜査員が活性化し、事件情報もとれるようになった。
警察が担う暴力団対策は、捜査で事件を摘発するだけではありません。事件の被害者や捜査協力者を暴力団の攻撃から守る「警固」の仕事もあります。工藤會は次々に事件を起こすため、警固対象者はどんどん増え、それに人手がかかって、肝心の捜査に手が回らない「悪循環」になっていました。
それに気づいた警察庁が、他県の機動隊を大量に投入したのが、状況を変えました。機動隊員に警護を任せ、同時にヒットマン候補の組員をマークし職務質問攻めにするなどして工藤會側の動きを封じた。それで県警の捜査員は未解決事件の捜査に専念できるようになったのです。
警察庁は尾上さんを北暴課長に起用する1年前の12年2月、県警の工藤會対策立て直しのため、司令塔となる県警暴力団対策部長に警察キャリアの猪原誠司さん(現・宮城県警本部長)を送り込んでいます。その猪原さんが満を持して起用したのが尾上さんでした。
――検察の側も適任者を福岡地検小倉支部長にあてますね。
ええ、やはり2013年4月に暴力団事件の捜査、公判に精通したベテラン検事の天野和生さんを小倉支部長に起用します。検察、警察は1990年代後半から、山口組幹部の拳銃不法所持事件の摘発などを通じ、暴力団トップと実行犯の間で具体的な共謀の事実がなくてもトップを罪に問えるとする画期的な判決を積み上げてきました。
天野さんはその公判の一部を担当し、どういう証拠をどう組み立てれば実行犯の組員との共犯でトップを起訴できるかを最もよく理解していた検事でした。
着任から約1年。天野さんと尾上さんは、工藤會トップの野村さんとナンバー2の同會会長、田上不美夫さんの二人を16年前の元漁協組合長射殺事件で立件できると確信します。実行犯2人は有罪が確定しており、その確定記録や捜査資料から、野村さんらの立件につながる有力な証拠を見つけたのです。
ところが、上級庁の福岡高検が慎重だった。事件が古いうえ、実行犯を摘発した捜査で田上さんを共犯として捕まえながら不起訴処分にしており、その判断を覆すことになるからです。
待ったがかかっているうちに元組合長の親族の歯科医が襲われてしまいます。結果として、高検が元組合長事件で野村さんら二人の立件についてゴーサインを出すのはそのあとになりました。
――警察と検察がエースを送り込み、組織を挙げて挑んだ工藤會会事件ですが、なかなか一直線には進まないですね。野村総裁の脱税事件では、逮捕した直後に脱税容疑の構図がくずれて真っ青になったりしている。これは知りませんでした。
捜査は生き物です。計画どおりにはいかないものです。脱税事件ははっきり言って綱渡りでした。工藤會が組員から徴収した会費の一部が野村さんのプライベートな使途に充てられていると見立てて逮捕したのですが、逮捕当日に、組員供述で2011年以降、野村さんが工藤會の経費からプライベートに支出したことはないことが判明する。脱税容疑の前提事実がガラガラと崩れてしまったわけです。
ところが、救いの神さまはいるもので、人事交流で国税から福岡地検に派遣されていた女性職員が、エクセルを使って工藤會関係のゆうちょ口座のカネの流れを分析し、組幹部の仮名口座への入金に一定の法則「3:3:1」性があるのを見つけた。
県警は、それ以前に脱税事件とは別の事件の捜査で、建設業者から工藤會にみかじめ料の運んでいた関係者から、同じ「3:3:1」で幹部にみかじめ料が分配されていたとの供述を得ていた。この2つの事実が結び付いたことで、改めて、建設業者らからのみかじめ料を脱税原資として摘発する道筋が見えたのです。
――そんなドラマがあったなんて。野村総裁らの元組合長射殺への関与を示す「核心的な」証言をあえて証拠申請しなかったと本書は書いています。よくこんな隠れた事実を掘り起こしたなと思うと同時に、証人の安全や証人の信用性が傷つく可能性を考えて見送らざるをえなかったのですね。
核心的であるがうえに、リスキーな証言でもあったのです。元組員は正直に事実を語り、法廷でもその証言を維持したかもしれませんが、検察としては「ヤクザはヤクザ。脛に傷がいろいろある。弁護側が底を突っ込めば、ほこりが出て、裁判所が、承認の証言に疑いを持つことになれば、野村総裁の関与を含め、検察の立証全体に対する裁判所の心証が悪くなるおそれがある」と考えたのです。
また、公判でトップに不利な証言すれば、工藤會組員の知るところとなり、証言者が組員に狙われかねない。検察はそれも恐れたのです。
政官財がからむ贈収賄や企業がからむ経済事件を追う特捜事件も、同様に関係者の供述証拠が立証の柱になることが多いのですが、暴力団トップがからむ事件の捜査はそれらの事件より数段難しいと思います。暴力団事件では、組員はトップの関与があってもまず、しゃべりません。しゃべれば、自分や家族の命が危うくなりますから。
――裁判所も足立さんというエースを横浜地裁から福岡地裁に送り込む「協力」をしていますね。
足立さんが「エース」かどうか知りませんが、裁判所としては、重大な事件ゆえ、法律解釈や証拠判断で間違いがないよう「実力者」を起用したのでしょうね。野村さんを死刑にした足立さんの判決は、状況証拠であっても様々な点から、それを構成する供述の任意性、信用性を周到に審査し、供述証拠の大半を採用して有罪の結論を導いている。
とはいえ、やはり「腹をくくって書いた」判決だったとは言えるでしょうね。判決後、弁護団は「直接に誰かに指示したとか、田上被告と話し合ったとかいう証拠は一切ない。これだけ薄い証拠、直接証拠がなくて、推認で死刑判決を出して良いのかと思う」と厳しく批判しました。その反応も理解できます。
捜査にも、起訴にも、判決にも、多くの論点を含んでいるのが工藤會事件です。書く前からある程度はわかっていましたが、書き終えてその感を一層強くしました。
