山口組が分裂した。割って出た側は、当初は20団体以上でのスタートと言われていたが、14団体と想定より少なくなった。山口組の引き止め工作がある程度は功を奏した。
とはいえ、山口組の一部関係者が喧伝するような「切り崩されて消滅する」という環境にはない。会の名称は神戸山口組で代紋は同じ山菱。組長には山健組の井上邦雄組長が座り、副組長には宅見組の入江禎組長が就き、若頭を侠友会の寺岡修会長が務めるなどきっちりと体制も固まった。
さらには、山口組以外の暴力団が合流することも予想され、それなりの勢力を保つことになりそうだ。
勢力均衡が簡単には崩れそうもないのは、なにより、双方、ケンカができないからだ。
すぐに想起されるのが、31年前に始まり、25名の死者を出した山口組と一和会の山一抗争だが、時代が違う。当時は、暴力団の行動を制限した暴力団対策法も、組長に全ての責任が波及する使用者責任の適用例も、組員の生活権や生存権を認めない暴力団排除条例もなかった。
いまは、抗争になればトップの逮捕の口実になりかねない。お互い、それを承知だからすくみあうしかない。
神戸山口組が、同じ「山口」で同じ「山菱」にしたのは、山口組100年の歴史と代紋の力に頼ったからだが、子(井上組長ら)が親(山口組の司忍6代目組長)を裏切ったのだから、やくざ本来の論理で言えば、山口組は決して許さないし、許してはならない。
ところが、それができない。
やくざが、「やくざの論理」を貫けないところに、暴力団が置かれている今の厳しい環境がある。そして、全国の暴力団員の過半近い勢力を誇る山口組の司組長は、その困難を内部では中央集権の厳しい統率、外部では抗争を避けて警察につけ込ませない平和外交路線で乗り切ろうとしてきた。
司組長と、2011年4月までの6年間、司組長が服役していた間に留守を預かった高山清司若頭は、内部に執行部への批判を許さない厳しい規律と、月に80万円以上の上納金と、義理事への臨時出費の際の集金、ミネラルウォーターなど日用雑貨品の強制購買などで、金銭的に傘下団体を締め上げた。
不満は強く、特に、先代の渡辺芳則5代目の出身母体である山健組には、山口組の本拠地は神戸で、そこを守っているのは自分たちだという自負がある。名古屋を拠点に統率する司組長と高山若頭の出身母体である弘道会への批判が強い。これまでに2度のクーデター計画があり、今回、3度目の正直で、ようやく離脱を図った。
山口組は、他の組織と「盃外交」を展開して平和外交路線を敷いているが、国粋会や落合金町連合といった2次団体を東京に置いたことが証明するように、友好の姿勢を見せながらも進出。その強引さが、「弘道会方式」と恐れられた。
安藤隆春・警察庁元長官は、「弘道会の弱体化なくして山口組の弱体化はなく、山口組の弱体化なくして暴力団の弱体化はない」という有名なセリフを口にし、「弘道会壊滅作戦」を指示した。
だが、弘道会は警察や行政と敵対する一方、中央集権で傘下組織を押さえ込んできた。さらには、平和外交と言いつつ他の組織の縄張りを侵食する手法は、暴力団社会からも警戒されていた。
山口組の分裂は、弘道会が推し進めてきた統治手法への反発がベースになっている。そのため他団体のなかには、神戸山口組と親戚関係を取り結ぶ動きがすでにある。
住吉会のなかでも最大級の勢力を誇る幸平一家は、加藤英幸総長が挨拶に訪れた。同じ関東の松葉会、稲川会などの「離脱組」にもそういう動きがある。西日本や九州の組織も幾つか同調しそうだ。
山口組(弘道会)と神戸山口組(山健組)の対立は、全国の暴力団組織を真っ二つに再編する可能性を秘めている。それは同時に、山口組が中心となって築いてきた「弘道会をトップにする暴力団ピラミッド」を瓦解させることに繋がっている。