――副社長まで努められた日経新聞社のグループでの仕事を平成22年6月に引退されたあと、ノンフィクションを書き始められました。早くも6冊目の「昭和解体」を3月15日に出版されています。今回のテーマに、国鉄(現JR)を選ばれたのはなぜですか。
自分が社会部の記者だった時代に、国鉄を担当したこともあるのですが、私が社会部長になったのが平成元年4月。現役の記者時代に取材し経験した戦後昭和の最大の政治経済事件は国鉄解体だったとの思いがあったのです。
戦前・戦中、さらには戦後直後の東京裁判などは詳しいノンフィクションが数々ありますが、その後の昭和末期の史実を追及した本は少ない。そこに光を当てたかったのです。もちろん今年の4月1日が民営化からちょうど30年という節目にあたることもあります。
――国鉄問題はどこが戦後史で特別なのですか。
占領軍司令官としてマッカーサー元帥は婦人参政権、農地解放などと並んで、労働組合活動の強化を日本の民主化として推進しました。その労組が冷戦の下で、共産党など左翼の地盤になりかねなかったこともあって、マッカーサー元帥はその活動を制限しようとします。
しかし、国労、動労などの組合勢力は政府・国鉄当局との対決姿勢を崩しませんでした。その力学の転機となったのが昭和50年の”スト権奪還スト”でした。組合側は8日間もの全面ストをぶち抜いたのですが、政府・自民党の強硬姿勢の前に全面敗北に追い込まれたのです。以降、組合側の力は次第に衰退に向かいます。労組の衰退を象徴するのが、国鉄最大の労組、国労の弱体化でした。
国鉄民営化直後、昭和時代が終わり、平成となった頃、国労が所属した労組の団体で「総本山」、総評も民社党系労組の団体、同盟と合併し、連合になることを決めました。そもそも国鉄は、同時期に民営化された電電公社(現NTT)や専売公社(現日本たばこ産業)と異なり、地域分割された。それは、分割することで全国一本の国労を分離・解体する狙いがあったからです。
国鉄解体は、一時期は50万人近い組合を抱えた国労の解体であり、戦後の政治体制「五五年体制」の終わりだったのです。それを政治戦略として着々と推し進めたのが“風見鶏”といわれた中曽根内閣でした。動労に裏切られ、国労が解体されていく過程の記述には「涙がでた」と国労関係者には言われました。
――国労が強くなり、反対に経営が悪化していく過程も相当突っ込んで描いています。類書にはない特徴ですね。
国労のスターは富塚三夫書記長(後に総評事務局長から衆院議員)ですが、知恵袋は共産党員だった細井宗一中央執行委員でした。細井氏は平成8年に死去しており、直接会ったことはありませんが、細井氏が国労の諸葛孔明のような存在であることは、当時も記者にはよく知られていました。
その細井氏が昭和43年に国鉄の駅や電車区、保線区などの現場で組合員と現場長(駅長や助役)が直接団交を行う「現場協議制度」を当局に認めさせましたが、現場で管理職を吊るし上げる機関になっていきます。これが国労を強くし、国鉄当局を弱らせます。
――いまやほとんど知られていない細井氏を取り上げているのもさすがですが、その細井氏と田中角栄元首相との関係を掘り起こしているのもすごいですね。
ふたりは満州で細井氏が騎兵隊少尉、田中氏が召集された二等兵で、細井氏は同郷で同年生まれの角栄さんをかわいがった。後に国労にとってはすごいホットラインになった。国労関係者で知らぬものはなかったが、田中元首相はけっして公表することはなく、相当食い込んでいた番記者にも知られてはいなかったようです。
――亡くなる直前の富塚氏や98歳の中曽根元首相にインタビューするなど、記者時代の記憶だけでなく、取材を重ねておられます。いろんな発掘があったのでしょうね。
多くの方に助けていただきました。国鉄改革3人組のひとり、井手正敬(JR西日本元社長)さんは記録を残しておこうと国鉄改革の当事者たちと何回も座談会を開き、録音し、文字に起こしています。
2000ページもあるのですが、福知山線の脱線事故が起こって、もう公に語れる立場ではないと、公表していません。それを見せていただくことができました。「昭和解体」の参考文献のトップに掲げているのが、その「国鉄改革回想録」(上下巻、井手正敬、未公開版)です。そのほかにも国労関係者などの非売品、自家本をたくさん見つけることができました。
国労で当時、「黒表紙」と呼ばれ、存在は知っていた「職場闘争の手引き」も手に入れることができました。これは、現場での闘争方法、いわばけんかの仕方を具体的にまとめたものです。記者時代に入手できていたら、大評判だったでしょうね。
――数々の発見、発掘があったのでしょうが、どれかひとつあげるとすれば、何になりますか。
当時、国鉄内で分割民営化反対の旗頭は縄田副総裁、その盟友と言われたのが自民党運輸族のボス、加藤六月衆院議員。加藤氏は最後まで抵抗したとおもわれていましたが、ひそかに中曽根首相を訪ね、分割民営化に全面協力すると約束したという記述を中曽根氏の「官邸日記」にみつけて、記しました。
加藤衆院議員の縄田副総裁への裏切りは、改革3人組ですら、この本で初めて知ったと言っていました。次の内閣改造で加藤氏は農相で入閣します。
国鉄解体に向けては自民党内だけでなく、政治と国鉄経営陣、国鉄経営陣内部、労使関係、国労、動労、鉄労という組合同士の労労問題など多くのドラマがありました。
国鉄の解体によって、国労は崩壊、国労が支えた総評も力を失い連合に移行し、総評が支えた社会党も解体同然の状態に追い込まれたのです。いわば国鉄解体は「昭和という時代」の解体でもあったのです。その歴史(ヒストリー)はまさに「物語」(ストーリー)でもありました。

■牧 久(まき・ひさし) 昭和16年大分県生まれ。39年早大政経卒、日経新聞社に入社。サイゴン支局長、社会部長を経て、副社長。テレビ大阪会長。著書に『サイゴンの火焔樹――もうひとつのベトナム戦争』『「安南王国」の夢――ベトナム独立を支援した日本人』『不屈の春雷――十河信二とその時代』(いずれも、ウェッジ)