さる24日の熊本地震の前震により、九州新幹線は走行中の回送列車が脱線し、博多-鹿児島中央の全線が不通となった。その後、20日に新水俣-鹿児島中央、23日に博多-熊本が運転再開となり、残る熊本-新水俣も24日に脱線車両の撤去が終了し、28日の運転再開を目指している。
復興に向け、新幹線の運転再開は実質的にも精神的にも大きな力となる。朝日・読売・毎日・日経・産経とも、24日夕刊1面にて博多-熊本の運転再開を写真付きで取上げた。それほど、鉄道は人々に勇気と希望をもたらし、また人の移動と物の運搬に大きな役割を果たす。
あの終戦の日も鉄道は運行し、戦地から引揚げた兵士たちは鉄道の走る姿を見て復興を胸に誓った。広島の路面電車は、原爆により車両も線路も架線も大損壊を受けながら、3日後に一部の路線で運転再開し、多くの市民を勇気づけ復興のシンボルとなった。
新幹線の運転再開に対し、ネットでは「さすが日本の新幹線」「思いのほかに早い復旧」「関係者に感謝」といった賞賛が集まった。一方、19日の毎日新聞「いらだち募らせる利用者 九州新幹線復旧長期化」に対しては、「偉そうなコメント」「なめたような記事」と非難が殺到した。
震災の復興において、鉄道は大きな役割を果たせる、果たすべきことを踏まえ、あえて申し上げよう。九州新幹線は、もっと早く運転再開できた、そして復興にもっと大きな役割を果たせた。
折返し運転のできる筑後船小屋以北と新水俣以南は、復旧工事を要する設備損壊はなかっただろう(事実と異なっていたら訂正するのでご指摘願いたい)。従って、博多-筑後船小屋と新水俣-鹿児島中央は遅くとも15日の朝、早ければ14日の深夜に運転再開できたはずだ。
筑後船小屋-熊本は若干の応急復旧を要した箇所もあったが、9日間も掛かるほどだったとは思えない。また、熊本-新水俣は脱線車両の撤去に長期を要すると考えた人が多いだろうが、転覆はしておらず、線路も壊滅的な損壊はしておらず、半日単位でできる作業だ。
自信を持って言えるのは、JR東日本在職中の1988(昭和63)年に、保線区で東中野の追突・脱線事故の復旧に従事し、車両を手で押して電車区まで運んだ経験があるからだ。脱輪のみではクレーンは不要で脱線復旧用ジャッキで復線でき、線路は大損壊していないので数十人で押して数kmくらい運べる。
ただし、群発地震が続く中、作業中の二次災害を起さぬために半日作業とは言わない。それでも、数日で撤去できて然るべきだろう。一方、設備損壊130箇所以上と報道されたが、橋桁の落下も、橋脚の破壊も、線路の大損壊も、電柱の大規模倒壊もなく、数日単位で応急復旧できる程度だったように思う。
群発地震が続く中、所定の速度と本数である必要はない。徐行運転かつ運休多数でも、全面不通とは大違いだ。さらなる大地震に備えて定員乗車を厳守の上で、日の明るい6時~18時に限定した低速かつ最低本数の運行から始め、次第に速度を上げ、本数を増やし、運転時間帯を広げていけば良い。
それにより、被災した人が親戚や友人を頼って疎開する、行政が近県の宿泊施設や空家へ誘導する、様々な復興に携わる人たちが現地へ入る、支援物資を現地へ持込む、いずれももっと効率的にできたはずだ。何しろ、鉄道が途絶えて人の移動と物の運搬が集中した道路は大変な渋滞が続いているのだ。
3.11以来、地震の活動期に入った日本列島において、鉄道が社会の期待に応えてより大きな役割を果たせるようになることを願い、あえて苦言を呈した。自らへの自戒も込め、鉄道人はもっと鉄道魂を持ちたい。前向きな議論の切っ掛けとなることを願っている。
熊本地震、新幹線はもっと早く運転再開できたのでは |
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鉄道に対する期待は高い、あえて苦言を呈そう
公開日:
(ソサエティ)
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阿部 等(交通コンサルタント会社「ライトレール」社長)
1961 年生、東大工学部都市工学科大学院修了。JR東日本(1期生)に17年間勤務し、鉄道の実務と研究開発に従事。2005年、交通コンサルタント会社「ライトレール」を創業し、交通計画のコンサルティングに従事。各種メディアにて鉄道に関してコメントする機会も多い。
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