1964年と言えば東京オリンピックの年である。現在進行中のリオ五輪と空気が違っていた。敗戦の荒廃からようやく抜け出し、世界の仲間入りした国家的イベントだったが、体験的感覚からすればひたむきな高揚感と清潔感があった。“メダル獲り”に狂喜するリオ報道にどこか違和感を感じてしまうのはぼくだけか。
大学を卒業したその年、ぼくは全国紙の新聞記者となった。その時買ったのが『たいまつ十六年』(企画通信社刊)、著者がむのたけじ(武野武治)。茶けた緑の箱に入った本が今も手元にある。
その、むのたけじが逝った。
炎暑の21日午前零時20分、老衰のためさいたま市の次男宅で亡くなった。享年101歳。高齢社会を象徴するような長寿だったが、ブレない硬骨のジャーナリスト人生だった。
いまはただ「むのさん、ごくろうさま」とだけ書き、頭を垂れ合掌する。
東京外語大学を卒業して報知新聞に入社、後に朝日新聞記者となった。戦争中、中国、インドネシアへ従軍記者として特派され、戦場を歩いた。
戦争を煽ったという自省から1945年8月15日、敗戦の日に辞表を出し郷里・秋田県の横手に帰った。彼一人の戦争責任の取り方だった。
昭和23年から30年間、小さな週刊新聞「たいまつ」を発行しつづけた。LAでテレビの日本語ニュース番組を20年余、制作し放送を続けたぼく自身、むのたけじの生き方に共鳴するものがある。もちろん経済的苦しみも身に染みて実感することができる。
メジャーからマイナーへ。それでも横手のむのたけじの存在はジャーナリズム界で決して小さくなかった。ぼくはアメリカから帰国してむのたけじが健在であることに驚き、インタビューを考えていた。本紙編集長とも話し合ったが、ご高齢を懸念していた。今となっては悔悟の念が溢れるが後のまつり。
昨年、作家・井出孫六ら5人で横手市を訪ねた。日本の帝国主義的侵略を徹底的に批判し「台湾から手を引け、朝鮮半島は朝鮮人の手に返せ」と主張したジャーナリスト、石橋湛山の足跡を辿る旅だった。湛山はこの横手をとても気にいっていた。
むのが横手に帰った時、湛山は東京へ戻っていて、二人が横手で交錯することはなかったが、リベラルという意味での共通性がある。雪深い横手は石川達三の生誕地であり、石坂洋次郎が教鞭をとった地でもある。石橋湛山やむのたけじの言論は今も瑞々しい。
敗戦直後、日本人が打ちひしがれているとき「これで日本は前途洋々」という堂々たる主張を『東洋経済新報』誌で書いた湛山や『たいまつ』を掲げて民主主義の道を歩んだ、むのたけじに学びたい。
むのたけじは100歳を超えても各地の集会に出て戦争と平和を熱っぽく語った。今もYouTubeで彼の肉声を聴くことができる。
死ぬまでむのたけじは安倍強権政治による秘密保護法や憲法解釈の変更、安保法案強行採決を批判していた。
むのたけじは前掲書のあとがきで書いている。
「人間は忘れることによって小さく救われ、忘れることによって大きく破滅した事実は否定できない」
ぼくら日本人は戦争でアジア、取り分け中国人、アメリカ人の2000万人の生命を奪い、310万人の日本人が犠牲となった、あの戦争の悲惨を「忘れよう」としていないか。だとすれば再び「破滅」がやってくる。
敗戦後71年、日本人は戦争をしなかった。戦争で何人も殺していないし、殺されていない。その歴史的意味をむのさんの霊とともに考えたい。
硬骨のジャーナリスト、むのたけじさんを悼む |
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1945年8月15日に朝日新聞に辞表を出し、郷里の横手で週刊新聞「たいまつ」を創刊した
公開日:
(ソサエティ)
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北岡 和義(ジャーナリスト)
1941年岐阜県生まれ。南山大学文学部卒。読売新聞社入社。千葉支局記者、北海道支社編集部記者を経て、衆議院議員横路孝弘(前衆議院議長)第一秘書。74年フリー・ジャーナリスト。1979年渡米。在米邦字紙編集部長。ジャパン・アメリカ・テレビジョン(JATV)設立、代表取締役社長。2006年帰国、日本大学国際関係学部特任教授。日本ペンクラブ理事。著書に『べらんめえ委員長』、『ドキュメント選挙戦』、『13人目の目撃者』、『海外から1票を!在外投票運動の航跡』、『政治家の人間力』など。
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