「史上最大の番狂わせ」と世界を驚愕させた、ラグビー・ワールドカップ(W杯)日本代表の南アフリカからの勝利。ラグビー伝来以来、最大の事件ともいえる一戦はラグビー界の記念碑となるだけでなく、「日本の形」に思いを至らすほどのインパクトを持っている。
英国で行われているW杯。1次リーグ第2戦となるスコットランド戦では敗れ、決勝トーナメント進出は楽なことではないと痛感させられたが、南ア戦の勝利の価値は変わらない。
ラグビーに関心があった人もなかった人も、国籍に対して極めて寛容な参加資格要件に目を向けたことであろう。
疲れを知らないプレーで日本をけん引する主将、マイケル・リーチ、南ア戦で途中出場し、逆転トライを決めたカーン・ヘスケスはともにニュージーランド出身だ。代表31選手のうち、10人がニュージ―ランド、トンガ、オーストラリアから日本に来た人々だ。
こうした陣容については複雑な心境が関係者の間にもあったらしい。
「自分の考えも変わった。これまで『日本人のための』『日本人にとっての』と考えていたが、国籍や人種の論争はさまつな話だと感じた」(ヤマハ発動機・清宮克幸監督、9月21日付け朝日新聞)
「考えが変わる前」の清宮氏は偏狭な純血主義にとらわれていた、というわけではないだろう。4年に一度のW杯。そのたびに助っ人をかき集めて、少々成果をあげたところで、その場限りのこと。日本ラグビーが強豪国の仲間入りをするという大計には資するところがないではないか、というのがその胸の内だったと思われ、それは確かに重要な論点を含んでいる。
こうした論点を、瞬間的であるにせよ、吹き飛ばしたのがあの勝利の大きさである。
外国出身選手にも、リーチのように日本国籍を取得した選手もいれば、そうでない選手もいる。しかし、日本生まれの選手を含め、みんなでボールをつなぎ、みんなで体を張って守ったプレーの気高さ、力強さ、一体感の前には国籍へのこだわりなど、消し飛ばされてしまうのだった。
この代表チームの〝ありよう〟は、少子化で先細る日本という国が、将来にわたって活力を保つにはどうすればいいのか、移民政策はどうあるべきなのか、というテーマの暗喩となっている。
おりしも、中東やアフリカから逃れる難民の受け入れ体制が、世界的な懸案となっている。日本だけ「我関せず」でいいのか……。
ここまで書くと論理の飛躍だといわれるだろうが、特に国の先行きについて責任をもっている政治家や官僚は「勝った、勝った」と浮かれてばかりでなく、あえて飛躍的想像力を働かせて、この歴史的勝利をとらえてほしいものである。
「国の形」という点で、日刊スポーツに掲載された荻島弘一氏の論評も興味深かった。
「87年の第1回W杯で全敗した後、コラムで『代表は負けてもいい。日本には早明戦がある』と書いた。皮肉のつもりだったのだが、協会関係者から『その通りだ』とほめられた」(9月21日付け)。このとき荻島氏は「代表は永遠に勝てないと思った」というのである。
日本のラグビーは技術的にも人気の上でも早慶明を中心とする大学ラグビーに負うところが大きかった。明治期のラグビー伝来以来、日本のラグビーはここが頂点であり、ラグビー協会の要職も伝統校の出身者で占められてきた。国内で完結した、完全ドメスティックなヒエラルキーこそが、こと国際舞台となると日本の前進を妨げる障壁として立ちはだかっていた。日本のラグビーは先ごろまで明治時代を引きずっていたのかもしれない。荻島氏の指摘はこうした問題意識の延長上にあると思われる。
オーストラリア出身のエディー・ジョーンズ・ヘッドコーチの手法に対しては「強引すぎる」との批判もあると聞くが、大学閥を超越し、代表編成の大きな壁とされていた企業チームの束縛を取り払い、国籍・人種の境界線を消してみせたという点で、やはり一つの革命を起こしたと評価される。
数あるスポーツのなかでもラグビーはアマチュアリズムを最後まで信奉していた団体であり、特に日本は守旧派の根城の一つだった。
その組織には、のっぴきならないエリート意識もあいまって、いまだに長州だ、薩摩だという声が聞こえてくる政界の藩閥体制にどこか通じるものがあった。日本の歴史的勝利を告げたノーサイドの笛は日本の下地となってきた旧体制にエディー・ジャパンが風穴を開けたことを告げる笛でもあった……。
と、ここまで書くとさすがに「論理の飛躍」とのそしりは免れまい。しかし「日本ラグビー」が世界へ一歩を踏み出し、真の国際デビューを果たした南ア戦はこれまでの100年、そしてこれからの100年という国の形を考えるうえで、さまざまな視点を与えてくれるのは確かなのである。