2020年東京五輪・パラリンピックの担当大臣が先ごろ選任され、この秋にはスポーツ庁が発足、いよいよ国を挙げての五輪体制が始動する。メダル量産への国の意気込みは頼もしい限りだが、国も全くの〝ボランティア〟でスポーツを支援しているわけではない。「国策スポーツ」に落とし穴はないだろうか。
五輪担当相に任命されたのは遠藤利明衆院議員。同じラグビー経験者として、森喜朗・東京五輪・パラリンピック組織委員会会長とも近い間柄で、国によるスポーツ振興策を主導してきたとされる。
五輪担当相として余人をもって代えがたい人物のようで「大会成功の条件はメダルを取ること。どんなに安定した大会でレガシー(遺産)ができても納得してもらえない」(2日付日本経済新聞のインタビュー記事)と気合も十分だ。
気になるのは国の入れ込み具合である。国策化していくことで、本来アスリートの自治の場であった競技団体や、個性の発露の場であったはずの競技が変質していくことは、国がまるごとトップ選手を抱えて育成、管理していた旧共産圏のいわゆる「ステートアマチュア」の例を持ち出すまでもなく、十分ありえることだ。
勝利至上主義はスポーツの一般的な普及とは相いれない部分がある。日本よりはるかに少ない人口ながら、英才教育の徹底によりメダルを量産している韓国は例えば高校野球チームでも50校あまりしかない。
韓国において、高校、大学とスポーツを続ける人材はそのままプロや五輪を目指すトップアスリートの予備軍であり、楽しむスポーツとして部活を続ける道はまずないという。
早い段階で絞られた精鋭のなかから、例えばワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で日本と対等に戦うチームが出てくるわけである。
ここには「底辺を広げれば自然にその頂点は高くなる」というピラミッド型の自由主義的強化策は幻想に過ぎないという思想がある。個人がめいめい好きなスポーツに取り組むなかから、世界に通用するトップアスリートが生まれるという悠長な構えではだめだということになり、エリート主義に走ることになる。
そこに国の出番も出てくるわけだが、国策スポーツへの傾斜がもたらす弊害も見逃せない。
2012年にロンドン五輪を開いた英国ではメダル有望競技とそうでない競技への予算配分が極端に開き、一部競技にとっては死活問題となった。国費を投じる以上、見返りがないと困るという言い分は当然だが、五輪のメダルだけがすべてか、となるとどうだろう。
五輪種目はまだいい。女子ソフトボールのように五輪からはずれた競技は、たちまち「いったい誰が支えていくのか」という壁にぶち当たることになる。
それでなくても、日本は五輪好きだ。競技によっては個別の世界選手権やワールドカップなどの方がはるかに高い内容を持っているにもかかわらず、五輪のメダルですべての価値を判断してしまうところがある。
一時五輪からの除外も検討されたレスリング。吉田沙保里らの存在が国を挙げての存続運動につながり、事なきを得たが、弱体であったならば無関心のまま時が過ぎていただろう。五輪種目にあらずんばスポーツにあらず……。五輪史上主義、メダル史上主義のなか、実はいつ存亡の機にさらされても不思議ではないという競技は少なくない。
「スポーツは遊びの延長と見られてきた――中略――遊びから脱却するには、国のしっかりした評価が必要」(6月26日付朝日新聞)。これが遠藤大臣の持論だそうだ。
様々な形での国の評価・支援は各競技の存立基盤となるだろうが、その代わり、競技団体や選手にはメダルという形で答える義務が生じる。
もともとスポーツは誰かのためにするものではない。遊びの延長でなくなることが幸せかどうか。この損得勘定、案外微妙ではあるまいか。