和製ベーブ・ルースこと清宮幸太郎(早実)らの健闘も一歩及ばず、日本は初優勝ならず……。野球のU18(18歳以下)ワールドカップ(W杯)のホスト国となった日本は6日の決勝で、米国に惜敗した。実力は互角、勝負を分けたのは野球文化の違いだった。
0-2で迎えた五回、日本はオコエ瑠偉(関東第一)が中前打で出塁する。米国の先発左腕の前に四回まで1安打の日本にとって、虎の子の走者だった。ここで明暗を分けるプレーが出る。
投手の右脚の動きから、本塁への投球動作に入ったとみたオコエは一瞬、二塁側に体重をかけた。ところが本塁へ投げるしかないはずの投手が、牽制球を放ってきた。仕方なく二塁に向かったオコエは憤死。記録は盗塁死で、走者はなくなった。
オコエの憤死は日本ではありえないことだった。なぜなら完全なボークだったから。オコエが二塁ベース上で「えー?」っとばかりに、両手を広げてみせたのも無理からぬこと。 結局1-2で敗れた日本にとって、相手のほかにも「大敵」があったということになる。
日本のルール解釈と国際的な運用のギャップが、もっとも大きく表れる場面の一つが牽制球といわれている。総じてメジャーをはじめ、日本以外の各国・地域のルール適用は投手に甘く、走者に厳しい。
これは18歳以下の世代だけでなく、日本のプロも参戦するワールド・ベースボール・クラシック(WBC)や、2020年東京大会に向けて復活運動を進めている五輪の舞台で野球が行われていたときも同じ。国際大会に臨む日本の走塁担当コーチは毎度、口酸っぱく「日本ではボークになる牽制がボークにならないぞ」と注意喚起しなければならないのだ。
今大会もその辺は徹底されていたはずだが、オコエら日本のトップ選手は条件反射的にスタートを切るところまで鍛えられているだけに、どうしても誘い出されてしまうのである。
日本もアメリカも、そしてその他各国・地域も基本的に同じルールブックの下にある。そのなかでもっとも厳格にルールを解釈し、運用しているのが日本ではないだろうか。そこに違いが生じる。
ボークという反則行為の〝立法趣旨〟の要点の一つは本塁に投げると見せかけて牽制球を放るような欺罔行為が許されると盗塁どころではなくなり、トリッキーでアクロバチックな牽制合戦になってしまう、というところにあるのではないか。
これを投手の動きにあてはめたとき、一分の疑いもなき清廉さを求めるのが日本で、「明らかにそれとわかる欺罔的モーションにみえなければOK」が世界の主流ということになるかもしれない。
野球大国であるはずの日本がもう少し発言権を持って、立法趣旨に沿った運用を訴えるべきであろうが、他競技の国際統括団体と同様、国際舞台における日本の〝政治力〟は強いとはいえない。
「野球」と「ベースボール」は異なるものと指摘されてきたところではあるが、改めて、文化的な背景の違いを認識させられるシーンがほかにもあった。決勝の四回、もろに死球を受けた米国の選手が蚊に刺されたほどの反応も示さず、一塁に走っていった。日本の高校球児も痛がらず、むしろ喜んで一塁に走る傾向はあるが、あそこまで平然としてはいられない。
メジャーでは死球や自打球が当たっても痛そうなそぶりをしないのが上策とされている。タフネスぶりが尊ばれるメジャーでは痛がるだけで「弱々しいヤツ」となめられてしまうからだ。球を怖がる選手は味方からも信用されないのである。中南米系の選手が増えてきた昨今ではそうした文化も廃れつつあるとみられていたが、どっこい、米国内では少年レベルから「痛がりません」の精神が、相変わることなく培われていたわけである。
同じ野球といいながら、ルールにない不文律の部分まで含めて、これからも日米は違う路線を行くのだろう。そのギャップは国際大会があるたびに不都合をもたらすかもしれないが、ことボークの解釈については日本の運用に正々堂々の美学が感じられ、「孤高のガラパゴス」でいいではないか、と筆者は考えている。