解体的出直しをうたいあげた今季の巨人。最大の眼目は阿部慎之助の捕手から一塁へのコンバートだったはずだが、開幕早々〝撤回〟を迫られることになった。原辰徳監督の一大決心のもとに断行された配置転換の何が問題だったのか。
一塁手・阿部の動きはオープン戦からぎこちなかった。3月14日の西武戦ではけん制球を後ろにそらす場面があった。記録は投手の失策だったが、止められない送球ではなかった。
脚の故障で出遅れ、この日がオープン戦初登場という事情はあった。しかし、その動きの鈍さは公式戦に入ってからも変わらず、3月31日からの中日3連戦でも記録に表れない拙守がみられた。
この守備ではいくら4番打者としての阿部が復活し、3割、30ホーマーを放ったとしても元が取れるだろうかと、心配になるほどだった。
誤解なきように書いておくと、決して阿部は一塁手として下手ではない。捕手からフィールドの野手に転向した選手は現中日の小笠原道大のようにグラブさばきがうまい傾向がある。投手のフォークボールなどの荒れ球を嫌というほど受けているからだろうか。
阿部も〝パートタイム〟で一塁に入っていたときはそんなにボロは出なかった。
決意も新たに登録を捕手から内野手に変え、「正一塁手」となった途端にまずくなった。この辺の事情を考えるには4月5日付日刊スポーツ掲載の、野球評論家・宮本慎也氏の指摘が参考になる。
「昨年も一塁を守っていたが、今季ほど動きは悪くなかった。今思えば、失敗が許される環境ではノビノビとプレーできるが、正式な一塁手としてやると重圧に変わってしまうのだろう」
これは正鵠を射ているのではないか。「本来は捕手だし」と思いながら一塁を守るのと、「正一塁手」として守るのとでは重圧が違い、かえって動きが縛られるというわけである。片手間感覚と本職の違い。それは「正~~」の落とし穴といっていいだろう。
このパラドックスは打撃面でも生じうる。コンバートの狙いは守備の負担を軽減し、昨季2割4分8厘、19本塁打に終わった打棒の復活を期すものだったはず。
しかし、いざ打撃に専念できる立場となってみると「よしんば打てなくても仕方がない」というポジションであった捕手とは違ったプレッシャーが生じかねない。
宮本氏の指摘は、自身が遊撃から三塁に転身した経験のあることを考えると、より説得力がある。ちゃんと守れてさえいればまずまず合格という遊撃と、打力も必須となる三塁の違いは身に染みているだろう。そこに選手心理のアヤがある。
阿部は親分肌といわれ、日本シリーズで中大の後輩、沢村拓一をマウンドでポカッとやって気合を入れた姿から豪放磊落な性格とみられがちだが、実は相当繊細なのである。またそうでなければ当然、捕手も務まらなかった。
原監督は相川亮二の故障もあって、阿部を捕手に戻した。するとチームは快進撃。久方ぶりの激務に故障してしまったが、「正一塁手」としては疑問符がつく阿部も、依然として「正捕手」でいられることははっきりしたわけである。(敬称略)