タレントを起用したプロ野球の始球式や、アイドルのコンサート会場かと間違えそうなバレーボールの国際大会……。スポーツシーンの熱心な演出は本来主人公となるべき看板選手の不在、試合という「中身」の薄さの裏返しではないのか。華美なデザインに走った新国立競技場はそんなスポーツ界の「過剰装飾」を象徴していた。
今は落ち着いたようだが、ひところのバレーボールの国際大会の演出がすごかった。大会によっては試合の前に人気アイドルグループの〝ミニコンサート〟があり、黄色い声援が飛んでいた。
今は特に女子の強化が進み、試合の中身も充実しているからいいが、低迷していたころは、大会が終わってみれば日本は下位に沈み、あの騒ぎはなんだったのか、というむなしさが残るばかりだった。
競技団体としてはバレーボールに興味のない人でも一度競技場に足を運び、試合をみてもらえば面白さに気づき、末永いサポーターになってくれるはず、という大計もあっただろう。しかし、あくまで本筋は日本代表のパフォーマンスであって、うわべを飾りたてたところで、ファン層を固めることにはならない。
プロ野球の現場は今なお、装飾に満ちている。
「打者の動きに合わせ10秒程度流していた登場曲を6~7秒で打ち切るようになった……」。6月17日付けの日本経済新聞夕刊によると、「時短」を進めるプロ野球で、打者が打席に向かう前の登場曲を流す時間を短縮しているという。
登場曲の選択に選手の好みが表れ、その点では面白いのだが、昔の野球を知る人に評判は芳しくない。「選手の色をそんなところで出してどうする。登場曲は要らない」(プロ野球OB)。場違いな曲が試合の緊張感を損ねるケースもあり、都合によって伸ばしたり短縮できたりするものなら、いっそなくしても構かまわないだろう。
各球団もイニング間のグッズプレゼントやチアーのショーなどファンサービスに余念がないが、これも本来主役たるべき者たちの存在感を薄れさせている。
イニング間の余興は米国流エンターテインメントの手法にならったものだろう。ただし、毎イニングのようにイベントを挟んでいるのは1A、2Aなどのマイナーリーグが主である。地方都市に本拠を置くマイナーチームの試合は地域のお祭りや縁日の色彩を帯び、野球とともにバーベキューも楽しむという家族向けの趣向になっている。
メジャーのスタジアムにおけるメーンイベントは当然ながら試合そのものであり、そこまでの趣向は凝らさず、野球をみせる。
始球式も「誰に向けた儀式なのか」と考えさせられることが多い。メジャーではチームに貢献したOBら球界関係者が務めることが多いが、日本プロ野球はスポンサー企業の代表や地元自治体の首長が多い。
日本の「タニマチ文化」の象徴といえるだろうが、何かとお世話になっている人に晴れ舞台を、というのはまだいい。スポンサーの支援が球団経営の助けとなり、ひいては球場入場料が抑えられる、というのであれば、それはファンの利益になるからだ。
どうにもついていけないのは「番宣始球式」である。テレビの新番組や封切り映画の出演者が行う始球式は野球とは無縁であり、違和感を抱かせるばかり。いつぞやは横浜スタジアムでウルトラマン対仮面ライダーの始球式があったとか。
物事の本質と装飾の境目がはっきりしなくなったのはバブル期であろう。スポーツ界はまだ、ひたすら華美に走ったあのバブル的体質を引きずってはいまいか。
新国立競技場で問題となった屋根のキール構造。キール、すなわち竜骨とは船の構造を支える主材であり、伝統的な船のそれは数式では表せないような優美な曲線を持っている。
その美しさは決して壊れてはならないという、船舶に求められる機能から発した美である。翻って、新国立競技場におけるキールは必要不可欠の機能を実現するための構造であったのか。
いうまでもなく、競技場は使ってナンボのバリバリの〝実用品〟であり、その価値は選手や観客にとって使いやすいかどうかで決まる。すべての議論はそこから出発しなければならなかったはずだ。遅ればせながら、計画は見直されることになったが、この問題は装飾と実質の区別を忘れたバブル的体質を引きずる人々が今なお、政治やスポーツの中心に居座っていることを示している。