記者のキャリアパスの中にデスクというポストがある。現場記者の原稿をブラッシュアップしたり、取材の指揮を執ったりするのが主な仕事だ。新聞業界であれば概ね20年ちょっと、40歳を超えたあたりで上司から声が掛かる。
現場記者になりたくてこの業界に入ったのだから、たいていの人はこの声掛けを喜ばない。ゴネて逃げ回る輩もいるが、自分だけわがままを言うわけにもいかず、1年以内にはほぼ全員陥落する。
筆者がその昔、通信社のデスクになった際に思ったのは、日本語の語感というのは人それぞれだなあということだ。記事の中に同じ語彙を多用しても気にしない猛者もいれば、こねくりまわした表現で悦に入る独善家もいる。
新聞記事は特に美文を求めているわけではないので、筆者はあまり言い回しには介入しなかった。ただ、どうしても違和を捨てきれない表現もあった。その代表格が「急がれる」だ。
「対策が急がれる」「急がれる再建策」-。話し言葉や一般の文章ではまったく登場しないのに、新聞の解説記事や論説委員の評論などでは重用される不思議な言葉だ。そもそもこれは文法的にどういうジャンルに入るのだろう。
受け身なのか、それとも命令形を穏やかにしたものなのか。とにかく、目にするだけで脇腹あたりがゾワゾワする気持ちのよくない言葉である。
朝日新聞は今年8月12日に「広域避難『逃げる先』の確保急げ」と題した社説で「都市部の住民をどう守るかは対策が急がれる大きな課題だ」との文章を載せている。それを皮切りに翌13日のコロナ宿泊療養をテーマにした社説では「宿泊療養の拡充・強化が急がれる」。さらに19日の社説「児童虐待と保護」では「当事者の声に耳を傾けて判断する体制作りが急がれる」とやった。
朝日の論説は世の人々をせかすのが仕事か思いたくなるが、それにしてもなぜ「急務だ」とか「最優先の課題」ではなく「急がれる」なのか。
筆者がこの表現を用いる記事に違和を抱くのは文法や語感の問題だけではない。
記者というのは、世の中の不条理がどういう事情で起きたのかを探るのが仕事である。くだんの言葉は、その不条理の解決を急ごうという趣旨なのだろうが、それはそのテーマを選択した時点で言わずもがなのことなのだ。
解説や評論は、なぜ「急がれる」かの背景や事情を書くことが主眼である。それを見出しや結語で「急がれる」と説くのは、同意反復ではないのか。
だから筆者はデスク時代、この言葉が入った原稿に出会うたびに心ひそかに「こいつは記者には向いていないんじゃないか」と思ったものだ。ところが、そんな違和を感じていたのは当方だけだったらしい。
大手新聞5社のデータベースで調べると、過去約半世紀の間に見出しや前文に入っているものだけでも1社当たりざっと2000件! この不思議な言葉は新聞業界で大手を振って紙面を跋扈し続けている。
「急がれる」 大手紙席巻するゾワゾワ表現 |
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【現代要語の基礎知識(12)】受け身?それとも命令形?
Reuters
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ゾルゲかわはら(コラムニスト)
現代社会を街場から観察するコラムニスト。金子ジムでプロボクサーを目指すも挫折。鮮魚卸売業、通信社記者、東大大学院講師を経て2019年からフリー
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