自民党総裁選の候補者が出そろった。4候補者は18日、日本記者クラブ主催の公開討論会で看板政策を含めた“公約”を詳しく説明する。ほぼ毎回ネットで視聴していて感じるのは、この国が遭遇している状況と、候補者が繰り出す政策との落差だ。例えは悪いが、全体が衰弱している患者を前に、頭痛薬の調合の仕方を論じ合っているような違和感を抱く。
そうした状況を招く原因の一つは、質問を発する記者たちの問いの立て方にある。かつて通信社にいた立場からすると天に唾する話だが、自戒を込めて論じたい。
候補者はみな現在の状況を「歴史の過渡期」「パラダイムの大転換」などと分析する。しかし、いざ具体的な政策となると、記者側の設定した「経済政策」「外交安保」「社会保障」「教育」「憲法」といった旧来型のカテゴリーの枠の中での答えに終始する。現在のこの国の閉塞状況は、そうした縦割りの政策対応そのものに起因しているのではないか。
例えば消費税。何回か前の総裁選では引き上げ時期や軽減税率の範囲に終始し、他の政策のコストと比較する議論はほとんどなかった。消費税1%分は約2兆5000億円。一方、沖縄県・普天間基地の辺野古移設費用は1兆円を超えると言われている。全国民の日々の生活に不可避的に負担を強いる税制と、外交を含めて代替手段がある安全保障政策を絡めて問う大きな議論があってもいいはずだ。「どっちも大事」は逃げ口上。限られた資源をどう配分するかこそが政治である。
カネの配分だけではない。政策の遂行は対立点が大きいほど政権のエネルギーと持ち時間を消費する。政権の時間とエネルギーをどこに集中するべきなのかは首相候補者に問うべき重要な論点だろう。
例えば改憲論議。議論の中身はたいてい9条を中心とした小難しいイデオロギー論争だが、世論調査で多くの国民が喫緊の課題としているのは暮らしや社会保障だ。それなのに、いま政治的エネルギーと膨大な時間を改憲に割いている場合なのかという状況認識についてのやりとりは聞かれない。
個別政策の垣根を超えた大構えの議論を深めていくと、前提としてきた国の骨格に触れざるを得なくなる。それは「日米同盟」「貿易立国」「ものづくり大国」といった戦後の基本構造の問い直しにつながっていく。つまり「パラダイムの転換」に対応する政策というのは、グランドデザインの刷新と同義なのだと思う。それを促す問い掛けがメディア側からもっとあっていい。
政策論議が旧来型の枠組みから出ない背景には、メディア企業の組織構成にも遠因がありそうだ。外交・安全保障を扱う政治部、財務省など経済官庁を担当する経済部、最近は社会保障を専門に扱う部署もできている。それは合理的な取材・出稿のための便宜に過ぎないのだが、これらの所属記者はお互いの領域には踏み込まない不文律のようなものがある。出身部で担当分野を区分けした編集委員にも同じことが言える。業界に巣食った縦割り文化が世の中全体を見る俯瞰力を阻んでいるともいえるだろう。
アカデミズムや官庁の世界も同様だ。研究者や官僚たちはみな専門分野の掘り下げに執心し、他の領域には関心を示そうとしない。それはコロナ禍でも示されたように、輻輳する社会的課題への対応力の低下をもたらす。スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットが1世紀近く前に指摘した「専門分化が進んだ現代社会の落とし穴」である。
いっそのこと、総裁選討論会はメディア各社の編集局長か論説委員長が問いをぶつけてみたらどうか。世の中全体を俯瞰し、個々の政策課題を横断的に見る立場から何を問うか。総裁選報道はメディア自体の力量も試される。
総裁選討論会 日本のグランドデザインの議論を |
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メディア側にも責任 いっそ編集局長や論説委員長が担当したら
Reuters
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河原 仁志(ジャーナリスト)
1982年に共同通信入社。福島、さいたま支局、ニューヨーク支局、経済部長、編集局長などを経て2019年退社。「沖縄50年の憂鬱」(光文社新書)を4月に出版。ほかに「沖縄をめぐる言葉たち」(毎日新聞出版)、「『西武王国』崩壊」(東洋経済新報社:共著)などがある。
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