記者会見がプレーヤーの精神を損なうほどのことであれば、その在り方は当然検討されてしかるべきだろう。ただ、これが「プレーに差し支える可能性が少しでもあるなら選手を守ろう」という単線的な方向で処理されることには異を唱えたい。
プロスポーツはメディアやファンあってのもの、という興行的な視点で言うのではない。いや、もっとずっと身勝手な理由。私のように「敗者の弁」に支えられ、人生のともしびにする人たちが案外少なくないと思うからだ。
私は根っからのボクシング狂である。大場政夫、鈴木石松(ガッツ石松の前のリングネーム)のころから三度の飯より好きだ。日本時間の昼過ぎにある海外の大きな試合があると、中学・高校を自主休校して生中継に備えたものだ。
長いテレビ観戦の歴史を通じて、いつも不思議に思ったことがあった。それは、日本の試合では負けた選手への試合直後のインタビューはご法度なのに、米国ではリング上で敗者にも容赦なくマイクが向けられることだった。
たいていの場合、敗者は傷だらけの顔でそれ応じ、彼らの語る言葉は勝者よりもはるかに奥深く、記憶に残った。

デオンテー・ワイルダー=㏄
だが、その数分後、顔面を腫らしたワイルダーはリング上で差し出されたマイクにこう答えている。「いいパンチを食った。言い訳はしない。鍛えなおして必ず戻ってくる」。
ふだんのワイルダーは相手を挑発する傍若無人のヒール役。それが別人のように真正面から現実を受け止め、痛恨の敗北に向き合っている。私は、彼が天分だけでここまで来たわけではないことを知った。

マニー・パッキャオ=PD
フィリピンの英雄は、必死に自身を納得させようとしていた。それは十分な名声を築き上げた男でさえ、心の支えを探して戸惑う人間に変わりはないことを教えてくれた。
もう一つ。私がもっとも印象深い敗者の弁は、キャリア最晩年の1980年10月、4度目の王座返り咲きを目指してラリー・ホームズ(米国)に挑み、初のTKO負けを喫したモハメド・アリ(米国)の言葉だ。試合は凄惨なものだった。
アリは10回までホームズに滅多打ちされ、この回終了後にセコンドが棄権を申し出た。次の回に進んでいたら間違いなくキャンバスに大の字になっていただろう。栄光のボクシング人生を歩んできたアリにとっても、私のような一ファンにとってもショッキングな敗北だった。

ローマ五輪のアリ(右から2人目)=PD
それまでお通夜のようだった会見場は、その一言で爆笑につつまれた。これを見ていた視聴者は、あれほどの惨敗を喫しても、なお諧謔精神を失わず生きていける人間がいることを知ったはずだ。
ボクシングは、一度の敗北がその選手の商品価値を大きく下げてしまう過酷なスポーツである。だからこそ敗者の言葉には勝者のそれにない質量が宿る。人々が人生で味わう葛藤と諦念が凝縮されている。それが聞く側の心に響くのは、私たちの人生が、勝つことより負けることの方がはるかに多いからではないか。
勝者がもたらす「感動」や「勇気」ばかりがもてはやされる昨今だが、どうか敗者への問い掛けをなくさないでほしい。彼らの言葉は、私のような凡人にとって生きるすべを授けてくれるかけがえのない道しるべなのだから。