ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が2月24日にウクライナ侵攻を命令してから2カ月が経過した。これを機に改めてプーチン大統領が言う開戦目的を検討し、今後の戦闘の成り行きを展望してみたい。とは言っても、現時点ではおそらく誰も「こうなる」とは断言できないだろう。それには開戦目的の中身が具体的でないことが関係している。
プーチン大統領はなぜウクライナ侵攻を決断したか。彼の2月21日の演説、同22日の記者会見、そして同24日の演説などから判断すると、開戦理由は3点に絞られよう。
ウクライナの「非軍事化」、「非ナチ化」、そしてウクライナの北大西洋条約機構(NATO)加盟阻止である。プーチン大統領が挙げたこれらの開戦理由は、さすがに絵空事からひねり出したのではなく、一定程度は根も歯もある。しかし問題は、その「程度」であって、いずれも開戦理由としては根拠薄弱だ。
まず、「非軍事化」だが、プーチン大統領は、東部ドンバス地方(ドネツク州とルガンスク州を合わせた総称)での2014年からの内戦で、ロシア語系住民が多数殺害されてきたことを「ジェノサイド」と指摘、これを止めるためにウクライナを非軍事化する必要があると主張する。
ウクライナでは国連ウクライナ人権監視団(HRMMU)がドンバスを中心に活動を続けてきた。ウクライナでは2014年4月にウクライナ軍とドンバスの親ロシア派武装勢力との間の内戦が始まった。同監視団によると、以来、今年2月21日までのほぼ8年間に、双方の兵士と民間人合わせて1万4200~1万4400人が死亡した。
うち民間人の死亡は3407人を超え、兵士はウクライナ軍が4400人、武装勢力6500人が死亡した。ほかに3万9000人が負傷。うち7000~9000人が民間人だった。
双方が対峙する線(コンタクト・ライン)の両側で市民が砲撃によって多数犠牲になってきた。プーチン大統領はこの死傷者の状況に加え、2月中旬からウクライナ軍による砲撃が大幅に増えたことも問題視する。欧州安全保障協力機構(OSCE)のウクライナ特別監視団(SMM)によると、確かに2月中旬に双方による停戦違反が急増した。
プーチン大統領はこうした事態を踏まえ、2月21日に親ロ派勢力が自称する「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」を国家として承認することを宣言、「いわゆる文明世界は、約400万人もの人が直面しているこの恐怖、ジェノサイドがあたかも存在しないかのように無視している」と強調した。だから、ウクライナを非軍事化しなければならないと説いた。400万人とは親ロ派勢力が支配する地域の人口だ。
だが、今回のウクライナ侵攻直前に砲撃件数は増えても、ジェノサイドが起きようとしていたとの報告は、国連からもOSCEからもない。
次に「非ナチ化」という開戦理由。ウクライナでは2014年に親欧米派リベラル勢力が主役となった政変(「マイダン革命」と言われる)の蔭で極右勢力が暗躍したことが分かっている。この中には第二次世界大戦中にナチス・ドイツ軍に協力しソ連軍と戦った指揮官の1人、ステパン・バンデラを賞賛する人たちいる。アゾフ大隊、スボボダ、右派セクターといった組織がこれに該当する。
プーチン大統領が今月21日、制圧を宣言した南部の要衝、マリウポリで戦っているウクライナ軍の主力のアゾフ大隊は、ナチ党の「ヴォルフスアンゲル」を模した紋章を使用している。
しかし、ゼレンスキー政権がこれら極右組織に乗っ取られているわけではない。そもそもウォリジミル・ゼレンスキー大統領はユダヤ人だ。
また極右勢力は2019年の議会選挙で連合し議席獲得をめざしたが、必要な5%という敷居を超えられず、議席を得られなかった。ウクライナ社会にネオナチ分子が存在することは確かだが、強い影響力を持っているとは言い難い。非ナチ化も十分な開戦理由とは言い難い。
ではウクライナのNATO加盟阻止はどうか。
プーチン大統領は就任してまもなく、2000年6月に訪ロしたビル・クリントン米大統領と会談した。その際、ロシアがNATOに加盟したいと言ったらどう思うかとクリントン大統領に聞いた。答えはうやむやだったというが、この逸話が物語るように、プーチン大統領は当初、NATOを敵視していなかった。しかし、第2期目(2004~2008年)に入ると、米国はNATOを拡大しないと約束したのに、約束を破ったと強く批判し始めた。
冷戦末期のドイツ(再)統一交渉の過程で、米国や当時の西ドイツの首脳からNATOを拡大しないといった発言はあった。1990年2月9日、クレムリンでのジェームズ・ベーカー米国務長官とミハイル・ゴルバチョフ・ソ連書記長とのやり取りがよく知られている。
ベーカー長官はこの会談で、NATOを「東方eastwardへは1インチたりとも」拡大しないと言った。それは公文書で確認されている。
NATOはその後数次にわたり加盟国を増やし、現在30カ国からなる軍事同盟へと成長、今後はフィンランドやスウェーデンも加盟するかもしれない。
確かに米国は約束を破ったように思われる。しかし、米国やNATOは反論する。会談で出た「東方」とは東欧諸国を意味するのではなく、「東ドイツ」という意味だという。NATOの軍事インフラを東ドイツ部分には配備しないとの約束だという。
ベーカー・ゴルバチョフ会談以外の当時の関係者のやり取りから判断しても、米国やNATOの言い分は詭弁のようにも思えるが、ロシア側には残念なことに、それは国際条約の形で約束されていない。1990年9月12日に東西ドイツ、米、英、仏、ソ連の6カ国外相が、ドイツ再統一の「最終解決条約」に調印したが、NATOを拡大しない旨の文言はない。
NATO不拡大の約束違反というプーチン大統領の指摘は相当に説得力を持つが、国際条約にない以上、迫力に欠ける。
もう1つ頭を傾げざるを得ない問題がある。ウクライナに侵攻する直前の段階で、そもそもウクライナのNATO加盟は現実味を帯びた話ではなかった。ジョー・バイデン米政権にもウクライナをすぐに加盟させようという声はなかった。欧州の多くの加盟国も同様だ。
ウクライナがNATOに加盟すると、ロシアがウクライナを攻撃した場合、NATO第5条によって、ほかの加盟国がウクライナのために参戦しなければならなくなる。ロシアと戦争する可能性が高いことが分かっていてウクライナの加盟を受け入れるわけにはいかない。
ウクライナのNATO加盟阻止というプーチン大統領が言う開戦理由も根拠薄弱ということになる。
プーチン大統領のウクライナ侵攻の決定には、クレムリンに近いとされるロシアの有力な国際問題評論家も驚いた。ロシア外務省系のシンクタンク、ロシア国際問題評議会(RIAC)理事長のアンドレイ・コルトノフや、ロシアの国際政治学会の重鎮とも言えるセルゲイ・カラガノフらの名前を挙げることができる。
ウクライナ侵攻はないと彼らはみていた。なぜなら、侵攻はロシアの国益に反し、非合理的だと思っていたからだ。
プーチン大統領が言う開戦理由が根拠薄弱だと考えると、ほかに別の、言わば隠れた開戦理由もあるように思われてくる。第4、第5の開戦理由として2つ挙げておきたい。いずれも彼の個人的な感情の問題に行き着く。
まずは、長年の米欧諸国の対ロ外交に対する恨み辛みである。2月21日の演説の下りには、西側諸国からたくさん口約束がなされたが、すべて空手形だったという文言がある。また、同24日の演説では、米国とNATOを「ウソの帝国だ」と断罪、連中はロシアに対して厚かましく、偉そうに振る舞うと批判した。悔しさが滲み出ている。
次に、プーチン大統領のウクライナに対する愛憎という複雑な思いだ。2月21日の演説は56分に及び、そのうちのかなりの時間を1917年のロシア革命を中心としたウクライナの歴史を語ることに費やした。
この演説の本来の趣旨は指摘したように、ドンバスの2つの自称共和国を国家として承認するとの宣言だったことを考えると少々突飛に思える。
プーチン大統領は昨年7月にはウクライナの歴史について長大な論文を発表、ロシア人とウクライナ人は「1つの民族である」と、ウクライナへの熱い思いを語った。その一方で、現在のウクライナはナショナリズムと汚職のウイルスに感染しているとか、米欧諸国の傀儡政権の下で植民地になっていると批判した。ここでのナショナリズムとは、ロシアに敵対的な姿勢を指すのだろう。
ロシア人とウクライナ人は同胞であると言いながら、なぜウクライナを非人道的に攻撃するのか。プーチン大統領は、男女間の愛憎に似た感情に支配されているのではと疑ってしまう。
戦闘の焦点は当初、首都キーフの攻防かと思われたが、ロシア軍は3月末に首都近郊から撤退を強いられ、4月中旬からはドンバス地方、特にマリウポリでの攻防戦に移った。プーチン大統領は21日にはマリウポリを制圧したと発表したが、戦争全体の行方、いつ戦闘が止むのか見通せない。
それにはプーチン大統領が掲げる開戦理由が深く関係しているように思われる。彼が挙げる3つの戦争目的が具体的に何をもって達成されたとみなすのかが不透明だからだ。
ウクライナの「非軍事化」とは何か。ウクライナ軍の全滅か、それともドンバスの完全制圧か。
ロシア外務省幹部(第2局長)のアレクセイ・ポリシチュクは3月初めに、ロシアに脅威を与える兵器がウクライナに存在しなくなることと説明したことがある。非武装中立を求めているようでもあるが、もしそうだとしたら、停戦・和平交渉は容易にはまとまらない。
「非ナチ化」は何を意味するか。ゼレンスキー政権はネオナチに牛耳られているとプーチン大統領は認識しているようだから、それはゼレンスキーの追放を意味するように思われる。しかし、ユダヤ人の大統領の追放が非ナチ化だとは、さすがにロシア国内でも理解されないだろう。非ナチ化の基準がほかにあるのかないのか、はっきりしない。
最後にウクライナのNATO加盟阻止という目標だが、この目標は既に指摘したように、事実上、侵攻前に達成されている。これだけが戦争目的であるなら、ロシアは侵攻する必要がなかったし、いつ停戦してもよいはずだ。
しかし、仮にNATO不拡大を国際条約の締結で約束させるというのであれば、現状ではその目的はいつまでたっても達成されないと言ってよい。
米欧やウクライナには、プーチン大統領が5月9日のナチス・ドイツとの戦争の勝利を祝う戦勝記念日に、ウクライナ戦争の勝利を宣言するとの見方がある。もしそうであるなら、プーチン大統領は誤った情報を基に判断しているか、政治的意図を持って開戦目的を相当に狭義に解釈しているということになる。掲げた勇ましい看板に偽りがあったと自ら認めるようなものだ。
プーチンはいったい何に勝利するつもりなのか |
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【ロシアと世界を見る目】5月9日に勝利宣言しても、開戦前の3目的はどれも達成できていない
公開日:
(ワールド)
Reuters
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小田 健(ジャーナリスト、元日経新聞モスクワ支局長)
1973年東京外国語大学ロシア語科卒。日本経済新聞社入社。モスクワ、ロンドン駐在、論説委員などを務め2011年退社。国際教養大学元客員教授。
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