ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が米欧諸国に対し、欧州における新たな安全保障体制の構築を求め攻勢をかけている。
今月(12月)中旬にはロシア外務省がそのための条約案を発表し、締結を呼びかけている。2022年は米欧とロシアの安保交渉が世界政治の一大焦点となろう。
ロシアが今、対米欧政策で最も重視しているのは、NATO(北大西洋条約機構)が東方に拡大しないとの約束を得ることだ。だが、さすがに米欧側がこれをすんなりと受け入れることは考えられず、交渉の難航は必至だろう。それでも双方が妥協できる余地もあるのかもしれない。
ロシアのNATO拡大阻止の要求は今に始まったことではないが、プーチン大統領は今秋から本腰を入れ始めた。拡大阻止を「お願い」するのではなく、拡大は「許容できない」と明言、今以上に拡大するなら「適切な軍事技術的措置を取る」「非友好的措置には厳しく対応する」と相当に強い調子で繰り返し強調している。
今月17日にはロシア外務省が米国との安全保障条約案、さらに別途NATO諸国との安全保障協定案を公表、その中の柱としてNATO拡大阻止を盛り込んだ。
NATOは1991年12月のソ連崩壊時、16カ国が加盟する集団安全保障機構だったが、1997年から東欧諸国を新たな仲間に迎え始め、現在の加盟国は30カ国。旧ソ連諸国15カ国の中ではバルト三国が加盟している。ウクライナやジョージアが加盟に意欲を示しているが、実現していない。
プーチン大統領がこれ以上のNATO拡大阻止を至上命題のように言い始めたのは、特に人口4200万人の大国ウクライナの加盟の可能性を今のうちに摘んでおきたいとの意図からだろう。
ウクライナはロシアには特別な国だ。基本的には同じ東スラブ民族の国で、古代ロシア(キエフ・ルーシ)は今のウクライナの首都キエフを中心に栄えた。プーチン大統領は、そうした濃厚な歴史的つながりのある国を敵対する軍事同盟の仲間に入れたくない。
それにウクライナはロシアと地上で約2000キロと長い国境を接する。その隣国ウクライナがNATOに加盟すれば、NATO軍基地が設けられるだけでなく、米国の核ミサイルが配備される可能性があり、ロシアは安全保障上、極めて重大な脅威にさらされる。
プーチン大統領は今月21日の国防省拡大会議で、米国がウクライナにミサイル基地を設けたら、ミサイルは7~10分でモスクワに到達するし、それが超音速ミサイルならわずか5分だと危機感を露わにした。
1962年に当時のソ連がキューバに核ミサイルを配備し、米国がこれに反発、両国は核戦争の一歩手前まで行った。キューバ・ミサイル危機である。当時の米国がキューバへの核ミサイル配備を絶対許さなかったように、ロシアはウクライナが核ミサイルを配備する可能性をゼロにしておきたいのだ。
ロシアにとってそれを最も確実に保証する方策は、米国とNATO諸国がロシアの条約案を受け入れることだが、米国などがそれをそのまま受け入れることはまずあり得ない。NATOの決定は全会一致が原則で、英国やポーランドなど対ロ強硬姿勢を取る国の存在を考えても、無理だ。
ではこの問題は袋小路に突き当たる運命にあるのかというと、妥協の道がないわけではないようにも思える。
米国やNATO諸国が「NATOを永遠に拡大しないとは約束できない。新規加盟の門戸は開いておく。しかし、当面は拡大する予定はない」といった類いの宣言を出し、事実上ウクライナの新規加盟を凍結することが考えられる。あいまいさが残る文言ではあるが、双方が折り合えるかどうか。侃々諤々のやり取りがあるだろう。
ロシア外務省は今回発表した条約草案の中に、NATOの拡大阻止のほか、NATOの軍事戦略の大幅変更を迫る条項も多数盛り込んだ。NATOに加盟していない旧ソ連諸国(つまりウクライナなど)に軍事基地を設けず、またそれらの国と二国間で軍事協力を実行しないとか、互いに他国の領土を使って「安全保障上の中核的利益」を侵害する軍事攻撃はしないなどがある。
ロシアはとにかく現状以上にNATO加盟国が増えることを阻止し、ロシア周辺の戦力を減らしておきたいと考えている。実はNATOとロシアが1997年5月に締結したNATO・ロシア基本条約には、それ以降新規に加盟した国にはNATOは核兵器を配備しないし、兵力を常駐させないとのくだりがある。
ところが2014年のロシアによるクリミア併合でNATOは常駐でなくローテーションと称し、小規模の部隊を1997年5月以降に加盟したバルト三国やポーランドに送り込んでいる。しかし、NATO・ロシア基本条約は形式的にはまだ有効だ。つまり、相互に合意できる余地はあるように思える。
米国の評論家でかつて共和党の大統領候補指名をめざしたパット・ブキャナンは、米国がNATOを拡大しないと譲歩すれば、ロシアから譲歩を引き出せるかもしれず、核軍備管理や軍事演習の制限などについて交渉したらどうかと提言した。(Creators.com, December 21)
米国、NATOとロシアが対決して得をするのは中国であって、中ロ同盟色が強まることは米国の利益にならないと説いた。示唆に富む論評だ。
米国務省のカレン・ドンフリード次官補は、ロシアによる条約案提示を受けて、二国間の協議を1月に始めることを確認、ジェイク・サリバン国家安全保障担当補佐官も対話に前向きだ。
プーチン大統領も23日の恒例の大記者会見で、米国から「前向きの反応がある」と述べ、少なくとも双方が折り合わず協議しないという雰囲気にはない。しかし、長期戦になることは必至だろう。
ところでプーチン大統領はしきりに、NATOが加盟国を増やさないと約束しながら、その約束を破ったと批判している。今月23日の記者会見でもNATOは「臆面もなく我々をだました」と述べ、怒り心頭だ。
だが、NATO側はそんな約束はしていないと真っ向から反論している。約束はあったのか、なかったのか一言付言しておきたい。
この問題をめぐる論争を遡ると、1989~1990年にかけてのドイツ統一交渉に行き着く。 当時は、統一ドイツをNATO加盟国とするかどうかが議論され、結局、東ドイツ部分へNATO部隊を配備しないなどとの条件付きで統一ドイツのNATO加盟を受け入れた。
次に問題となったのが、かつてソ連の同盟国だった東欧諸国への拡大だ。こちらは1997年7月のマドリッドでのNATO首脳会議で、まずチェコ共和国、ハンガリー、ポーランド3カ国の加盟を承認、その後、2004年にバルト三国など7カ国、2009年2カ国、2017年1カ国、2020年1カ国が新規に加盟、現在NATO加盟国は30カ国だ。
ロシアのこれら諸国へのNATO拡大に対する姿勢は当初、必ずしも一貫しなかったが、2007年2月にプーチン大統領がミュンヘンでのセミナーで明確にNATO拡大批判を打ち出し、以来、その姿勢は変わっていない。
ロシアの見解によれば、ドイツ統一交渉の過程で、ジェームズ・ベーカー米国務長官や西ドイツのヘルムート・コール首相がソ連の最高指導者、ミハイル・ゴルバチョフ共産党書記長に拡大しないと約束した。
だが、そんな約束はなかったという見解も有力だ。ゴルバチョフの新思考外交を担ったエドワルド・シェワルナゼ外相(のちジョージア大統領)や当のベーカー国務長官も否定した。
その後の研究で、ゴルバチョフ書記長と米欧首脳との間でNATOの「東」への拡大についてやりとりがあったことは確認され、1990年9月に6カ国が調印したドイツ統一に関する「最終解決条約」では、外国軍つまりNATO軍は東ドイツ地域に配備されないことが合意された。
しかし、ロシアが指摘するような「東」が東欧諸国を意味しているとの前提で、それら諸国への不拡大の約束を明記した文書は作成されなかった。当時の交渉がNATOの東欧諸国への拡大はないとの精神のもと進められていたとは言うことができるかもしれないが、文書が存在しない以上、約束違反というロシアの批判は迫力不足と言われても仕方ないのかもしれない。
ロシアが米国に安保条約案を提示 年明け交渉は難航必至 |
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【ロシアと世界を見る眼】ウクライナのNATO加盟阻止が焦点
公開日:
(ワールド)
Reuters
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小田 健(ジャーナリスト、元日経新聞モスクワ支局長)
1973年東京外国語大学ロシア語科卒。日本経済新聞社入社。モスクワ、ロンドン駐在、論説委員などを務め2011年退社。国際教養大学元客員教授。
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