ロシアのノーバヤ・ガゼータ紙の編集長、ドミトリー・ムラトフがフィリピンのジャーナリスト、マリア・レッサとともに2021年度のノーベル平和賞を受賞した。ウラジーミル・プーチン政権が報道や政治活動への締め付けを強める中での受賞だけに意義深い。
ノーバヤ・ガゼータ(ロシア語で「新しい新聞」という意味を持つ。現在週3回発行)に寄稿していたアンナ・ポリトコフスカヤが2006年10月に自宅アパートメント・エレベータ前で射殺されて2週間ほど後、わたしは日本のジャーナリストらの代表団の団長としてモスクワの同紙オフィスを訪れる機会があり、弔問した。
その日の夜、ムラトフ編集長は我々が食事をしているレストランに駆けつけ、長々と懇談に応じてくれた。彼の音頭で互いに独立不羈のジャーナリスト魂を失わないようにしようと乾杯したことを思い出す。
ノルウェー・ノーベル委員会は、ムラトフがロシアで報道を取り巻く状況が困難さを増す中で言論の自由を守ったと指摘、「殺人や脅迫」をはねのけ、「独自の方針」を貫いたと授賞理由を説明した。ノーバヤ・ガゼータが「事実に基づいたジャーナリズムと誠実さ」を発揮、ロシアのほかの多くのメディアが取り上げないロシア社会の問題点について報道したと讃えた。
同紙は1993年、コムソモリスカヤ・プラウダ紙を去った記者らが創刊、政権批判を厭わず、高官の汚職疑惑などを取り上げ、調査報道を続けてきた。当初はミハイル・ゴルバチョフ元ソ連共産党書記長・元大統領が資金援助、現在はロシアの富豪でソ連時代の国家保安委員会(KGB)出身のアレクサンドル・レベジェフも株主の1人として名を連ねている。なお、レベジェフは息子とともに英国のイーブニング・スタンダードとインデペンデント2紙のオーナーでもある。
ノーバヤ・ガゼータは大新聞ではないが、ロシアを代表するリベラル紙で、アレクセイ・ベネディクトフが編集長を務めるラジオ局の「エーホ・マスクブィー(モスクワのこだま)」とともに、ロシアで奮闘しているメディアの象徴的存在でもある。
ノーベル委員会がロシアの報道環境が困難さを増していると言及した下りには、具体的にどのような困難があるかの指摘はないが、ここ1年、プーチン政権が報道界、そして反体制政治団体への締め付けを強化していることは間違いない。
当局がその道具として使っているのが「外国エージェント法」と、その兄弟法である「好ましからざる団体法」だ。前者は2012年施行で、その後何度か改訂され規制を強化してきた。後者は2015年施行。
外国エージェント法によると、外国からの資金提供を受け政治活動に従事する団体や個人は司法省から外国エージェントの指定を受ける。指定を受けると、定期的、かつ詳細な会計報告を提出しなければならないし、その出版物にはいちいち自らが外国エージェントであることを明記しなければならない。違反には高額の罰金が科される。
一方、好ましからざる団体法によると、検察庁は外国の団体や国際機関を一方的に「好ましくない」と宣言し、閉鎖を命令できる。命令に従わない場合は罰金や懲役刑が待っている。
当局はこれら2の法律を駆使し、メディアや反政府運動を抑え込んできた。反政府活動家で昨年、神経剤のノビチョクによる毒殺の試みにあったとされるアレクセイ・ナヴァリヌイが率いる団体も今年、「好ましからざる団体」に指定された。
ロシアで活動する内外の報道機関が注意しなければならないことの一つは、外国エージェント法の対象になるかどうかだ。政治活動を行わず、言わば純粋な報道に徹するなら指定されないのだが、外国の報道機関でも米国のVOAなどは指定されている。
ムラトフらが懸念しているのは、今年に入ってロシアの報道機関への指定が相次いでいることだ。テレビ局のドシチ(Dozhd)、調査報道サイトのアイストーリーズ(iStories)、メドゥーザ(Meduza)などが対象になった。
外国エージェントに指定されても、活動を禁止されるわけではないが、報道機関の場合、企業が広告を出さなくなり、経営が悪化するし、取材先も取材を受けなくなる傾向がある。
このためロシアの10の報道機関は8月以降、報道機関を適用から外すよう法改正を求め、プーチン大統領らに書簡を出すなど、運動を始めた。ノーバヤ・ガゼータもその運動に名を連ねている。ただし、同紙は外国エージェントには指定されていない。
ムラトフは8日夜、ラジオ局「モスクワのこだま」で受賞についてインタビューを受けた際も外国エージェント法の運用を強く批判した。
ロシア政府は、米国で「外国エージェント登録法」に基づいて国営メディアのRTなどロシアの報道機関が制約を受けていることに対抗措置を取っているのであって、米政府による規制の方がより厳しいと指摘している。
ムラトフの平和賞受賞に関連して興味深いのはプーチン政権(クレムリン)による反応だ。ノーバヤ・ガゼータの論調は政権に厳しいのだから、ムラトフの受賞はクレムリンにはありがたくない話だと思っていたら、何と、祝意を表した。
ドミトリー・ペスコフ大統領報道官は8日、「ドミトリー・ムラトフにお祝い申し上げる。彼は一貫して自らの理想に忠実に守り仕事をしてきた。彼は才能のある人で、勇気がある」と述べた。
国営メディアのRTの編集長、マルガリータ・シモニヤンも「おめでとう」を伝えた。
政権側にどのような思惑があってこのような反応になったのか測り難いところがあるが、政権批判でも一定の枠内に収まっているなら仕方なく歓迎するということか。
今回の平和賞受賞候補として事前にナヴァリヌイの名前が上がっていた。ムラトフよりもナヴァリヌイが有力視されていた感じもする。
ナヴァリヌイ自身からムラトフ受賞への反応はこの記事の執筆時点ではないが、彼の側近であるレオニード・ヴォルコフは「私は自由を大切にする者としてあなたの嘔吐する権利を支持する」と反応した。ナヴァリヌイが受賞すべきで、ムラトフはそれを辞退すべきだと言っているようでもあり、素直に歓迎していないようだ。
ムラトフは、今年9月の総選挙でナヴァリヌイが呼びかけた「賢い投票」という選挙戦略に批判的だったから、そう単純に喜べないのだろう。それにムラトフは体制内リベラルであり、自分たちとは違うとの意識もあるのかもしれない。
もう一つ、興味深い反応は中国である。中国の通信社である中国新聞社はノーベル賞委員会の発表直後、受賞した2人を似顔絵入りで紹介した。しかし速報はすぐに削除された。その後も、国内の主要メディアは平和賞に関して報じていないという。
同じ権威主義体制の国と言われながら、プーチンは祝意を示し、習近平は受賞の事実すらもみ消した。中ロは政治的に接近していると言っても、両国の報道空間には違いがあることがわかる。
反プーチンの編集長にノーベル平和賞――クレムリンが祝意の意外 |
あとで読む |
【ロシアと世界を見る眼】体制内リベラルだから? 当局が2法で締め付けのなか法改正求める
公開日:
(ワールド)
ムラトフ氏(2021 年10月8日) =Reuters
![]() |
小田 健(ジャーナリスト、元日経新聞モスクワ支局長)
1973年東京外国語大学ロシア語科卒。日本経済新聞社入社。モスクワ、ロンドン駐在、論説委員などを務め2011年退社。国際教養大学元客員教授。
|
![]() |
小田 健(ジャーナリスト、元日経新聞モスクワ支局長) の 最新の記事(全て見る)
|